我々は、ある社会の中で生きます。ある文化の中で生きる。ある家族の中で、ある集団の中で、ある価値観の中で、生きる。
そんな中で、独自の道徳観を育て、身につけてゆきます。
それに関係するのが、前に書いたペルソナですね。
何が善くて、何が悪いのか? 正しい行為とは? すべきことは? 守るべきことは? 従うべきことは? してはならないことは何か?
それらを学んでゆきます。
我々は人間であり、獣ではないので、好き勝手には生きない。秩序を守って生きます。
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しかし、道徳を守るということは、制限を己に課すということでもある。部分部分で、自分を縛り、自由を奪うことになる。
怒りに任せて人を殴るわけにはいかず、欲しいからといって奪うこともしない。
小さい頃など、多少そういうところもありながら、だんだんと矯正していきます。
ただ、人間には感情や衝動というものがあるので、怒りもあれば、欲もある。何かに惹かれたり、嫌悪感を抱いたり、何かをしたくなったり、したくなくなったりする。
それが時に、社会の規範から外れているものだったりすることもあるでしょう。
我々はそれを、個人的無意識の中に追いやります。
無意識の内に、自分自身の心の平安を保つために、
それを個人的無意識にある押入れやポケットのようなところに追いやり、隠す。
まだ幼い自我を守るために、あらゆる防衛機制が駆使され、脅威となるものは退けられます。
その社会で、文化で、何らかの集団で、タブーになるようなものは、意識にさえ上らないように、追いやられる。
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ひとりの人間の中にあって、ただし、規範や道徳から外れそうなものは、抑圧や否認、同一視や投影などによって、自我に認識させないように隠される。あるいは、ある種の罪悪感に関係するようなものも、そうなる。
それらは消し去られたわけではなく、隠されているだけです。目に触れない場所に、そっと移動させられているだけ。
自我は、それを徹底的に否認しようとします。自分の中にそれがあることを認めず、激情を持って、否定する。逆に、それを他者の中に見出し、一生懸命に否定することで、自分の中にある
それの存在を忘れようとする。
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前に、我々人間は自分のことが見えないように作られている、といったようなことを書きました。それは上記のような点においても、その通りなのです。
自分のしていることに対しては無自覚で、他者のしていることには敏感。自分については無頓着で、他者を嘲笑ったり、非難したりする。「あの人が悪い」と言うことに、一生懸命になってしまいます。
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そのメカニズムによって、自分の中にあるものを、他者に投影する。気持ちまで、投影することもある。
自分の中の憎しみを相手に投影し、相手が自分のことを憎んでいるのではないかと、不安になったりする。
自分がバカにしている気持ちを投影し、相手が自分をバカにしているのではないかと、疑う。
自分が得意になりたい(自慢したい)気持ちを投影し、あの人は得意になっている(自慢している)と、腹を立てる。
自分の中にある相手への攻撃性を投影し、相手が自分を攻撃するのではないかと、怖れたりもする。
さらに、このようなものが集団で行われた場合、悲劇が起こる。
生け贄の山羊、スケープゴート[scapegoat]が捧げられる。
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しかし、今まで書いてきたようなことは、カタチや程度こそ違えど、誰でも経験することです。
避けられない道だとも言えるでしょう。
影を持たない人などいません。また、影を持つ以上、どうしても投影してしまうものです。人間の作りが、そうなっているんだから。
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影を自分の目で見るには、まず、立ち止まること。
前を向いているだけでは、自分の影は見えません。
下を向いたり、振り返ったり、自分の影を探さなくてはならない。
そして、心理的な自分の影とは、だいたいが否定しているものだったり、気に食わないものだったりします。
つまり、影を見る=影と対面する、とは、そんなものを見つめることを意味します。
今まで見向きもしなかったり、否定してきたり、誰かに転嫁していたことを、自分のこととして認めねばならない。
罪だと思っていること、恥だと思っていること、タブーだと思っていること、それらが自分の中にあると、認めることから始まります。
だから、難しいのも当たり前ですね。
他者には簡単に思えても、本人にとっては難しいし、死活問題です。
気づいた途端に、はぁ~~~~~~~~~~~~~~(←気が抜けたり、頭を抱えたりする感じ)、となるような代物。何ともいえない気分を味わうのが、本物の影です。
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ひとつには、影になるようなものは、本人にとっては不要だと思われるもの。できれば切り離して捨てたいと思うようなもの。
けれど、本当にそれが要らないものなのかどうかは、また別問題です。
また、それは本人にとって、罪だと思えたり、恥だと思えたり、タブーだと思えたりしますが、これも本当にそうかは、別問題。
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さらにいえば、コンプレックスに関連するものがある種のエネルギーを内包していることも、忘れられません。
実際、コンプレックスが関わった時の、あのエネルギー、それを目の当たりにしたことは、誰だってあるのではないでしょうか。
激情といえるほどのエネルギー。
それは確かに、あまりよろしくないカタチだったり、よく分からないカタチで表に出がちです。しかし、カタチを無視すれば、豊富なエネルギーだということにも、気づきます。
激情っていうぐらいですから。
つまり、カタチさえどうにかなれば、よりよいものにも利用可能なのです。
ユング派の分析において一番大変なのは、被分析者が自分の影に直面しはじめるときである。それが難しいのは当然である。影コンプレックスは、罪悪感とか、自分は恥ずべき人間であるという思い込みとか、自分の真の姿が暴露されることに対する恐怖心とかによって、全体に彩られているからである。この過程がとんなに辛かろうとも、堪えなければならない。
なぜなら<自己>の潜在能力や本能的エネルギーの多くは影の中に取り込まれ、そのために全体的人格には到達できないからである。そうした<自己>分裂状態に陥っている人はたいてい、不平をこぼす。
分析が成功して、影が意識化され、被分析者がその内容を直視できるようになれば、より精力的、創造的になり、自分がより全体的になったような気がしてくる。
影はやっかいなもので、その奴隷になると、人間は獣の位置まで下ってしまうかもしれません。
しかし、人間もまた、動物の中の一種であることも忘れられない。
また、その動物的なものの中には、豊富なエネルギーが眠っている。
我々は機械ではなく、感情も衝動も持ちます。故に、芸術性を持ったり、素晴らしい絵画や彫刻、音楽や文章、あるいは自然の姿に触れて、感動もする。場合によっては、生み出すことさえできる。
我々は獣ではなく、それでいて、動物の中の一つのカテゴリーに属する。両方が、その通りなのです…
影の現象学 (講談社学術文庫)ジキル&ハイド →
ユング心理学概論の目次