ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
河合隼雄さんが、ある本の中で、面白いことをおっしゃっていました。


「イライラは、自分の何か――多くの場合、何らかの欠点にかかわること――を見出すのを防ぐために、相手に対する攻撃として出てくることが多いのである」





なるほど、確かに「投影」と「イライラ」は密接につながっているのかもしれません。

自分の不足や欠点はなかなか見えないし、そんなものは見たくないと思うのが人情ですから、仕方ない部分があるでしょう。

また、「影」というのは、自分の背中=死角にあるので、なかなか見えません。



「何故か、ある人を見ているとイライラする」という場合、意識できない自分の欠点を、相手に見出し――自分の影を相手に投影し――それでイライラする部分もあるでしょう。

なにせ、自分と関係ないことには、人はあまりイライラしませんからな。イライラするからには、自分と何か関わりがあるということなんでしょう。

「イライラ」というのは、先の例でも「何故か」と書いたように、理由が明確でないことに特徴があるようです。「イライラする」というのは、その明確な理由が見出せないために、「怒り」や「悲しみ」などの感情にちゃんと消化されていないのかもしれません。感情が流されていっていないのかもしれない。

未消化で、ケリがついてないので、余計にイライラするのかもしれません。



そう考えると、「イライラ」の裏には、「未消化な感情」みたいなものが、存在しているのかもしれませんね。

人間である以上、自分にしても、相手にしても、欠点なり不足なりは存在するものです。しかし、特定の相手に対して、何だか知らないけれど猛烈にイライラする場合などは、相手の欠点なり不足なりを見ているようで、案外、自分自身の死角に生きている、いわば、影なる自分を見ているのかもしれません。

あるいは、すごく身近でありながら見たくないことを何かに映し出して、本当は渦巻いている感情の一部を、そこに出しているのかもしれません。

そうすると、感情を出すという意味では、いい面も少しはあるのかもしれませんね。感情は出すことがないと、たいへんなことになることがあるので。



自分のことだから、完全に切り離して考えるわけにはいかない。自分のことではないにしても、身近なことは切り離せない。なかったことにはできない。

それを相手の中に見出すのだけれど、相手のことだと簡単に割り切って済ませられない。

しかし、影というだけあって、それは自分では見えない背後にあるので、自分のことだとは認識できない。複雑な感情だってある。

これじゃあ、イライラもするはずですよね。これも人間らしさのひとつか。



というわけで、我々は、相手のここが悪いとか、ここが嫌いとか、何らかの不備や不足、欠点を取り上げて、攻撃したり、あるいは、うまく言えなくてイライラしたりもしますが、実はそれは、相手に怒ったり、イライラしているようで、案外、自分の背後にあるもの――つまり、影――に対して、イライラしているのかもしれないんです。

あるいは、自分にすごく関係のある、身近なものについてイライラしているのかもしれません。

(まあ、相手の中にも欠点や不足はあって、それに怒っているというのもまんざら嘘だとはいえないんですけどね。相手も人間、自分も人間、足りないところや不備もありますわ)



まあ、こういうのは、「イライラ」や「カッカ」している時にはなかなか耳に入らないだろうし(そういう意味では、耳に入れる必要もないし)、相手に言われればそれこそ火に油ですが、上記の案外という部分に自らが気づいた時、そういう余裕が生まれた時、す~っと消化していく、影と自身が手をつなぐことができる、その「きっかけ」くらいは、生まれるのかもしれません。

(「投影の引き戻し」ってやつですね)


それによって人間が一皮剥けるのだとすると、そこには意味があるわけだし、神様がイライラを人間に残す理由も、そんなところにあるのかもしれませんね…





こころの処方箋




【追記】

「影」とは、自分の不足や欠点、認めたくない一面のことをいいます。
「投影」とは、その影を自分のものと認知せず、相手のものとして処理しようとする自我の「防衛機制」のことです。

日本語的表現としては、「棚に上げる」とか「責任転嫁」が近いかもしれません。


「影」(ユング・用語)
「投影」(ユング・用語)



【関連記事】
「それなりにの意味/自然なるもの」




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昨日の記事の続きです…)


23 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2008/12/25(木) 22:12:04.81 ID:3ctVg9yyO
本当なら内部からマスゴミの腐った根性を叩き直していって欲しい。時間掛かってもいいから頼む

>>23
一応、努力してる。




こういう布置って、どの業界でも同じかもしれませんねぇ。業界云々じゃなくても、どこでも同じかもしれない。

で、変わるには時間がかかるし、変わろうとするにはショックが必要だ。変わる必要が生じないと、なかなか変わらんのが、人間だものね。(逆に言えば、変わろうとしないから変わる必要が生じる、ともいえますが…)



今、「政治よ変われ」という声が強いけども、私にはそれが、投影に思えて仕方ない。

だって、誰も自分が変わろうとはしないもの。

政治に向かって「変われ、変われ」と。それで、自分の置かれた状況を「よくしろ、よくしろ」と。

自分は変わることなく、周囲が変わって、それによって自分の状況をよくしろ、と。

これってありなんですかね?


ま、心情としてはありだけど、それを大合唱するもんなのだろうか? 公共の電波でさ。



政治が変わるには、それを伝えるメディアと、情報を受け取り(政治家を)選択する有権者が変わるのは、必須だと思うんだけどな。

それなしに政治だけ変わったって、それは上っ面が変わるだけで、本質的に変わることにはならんだろうに。



すごく極端な、しかもヘンなことを言うとですね、太っている人はダイエットするといい。運動不足の人は運動を習慣にするといい。本を読まない人は、少しだけ本を読むように習慣付ければいい。

そういうことを通じて、変わるってことを体験として知る必要があるんじゃなかろうか。

でも、こういうことを言うと、批判する人や糾弾する人まで出ることがあるでしょ?

以前、「わたしはこういう風にして変わろうと思いました」「変わろうとしています」、そういう記事を書いた人に対し、すごく批判的なことを言う人が多いのを見て、驚いたことがあります。

その記事を書いた人は、誰かにそうしろとは言ってなかったと思うんですが、読んだ人の中には、そう捉える人が少なくなかったんでしょう。

自分でもうすうす気づいているから、その記事に意識の裏側にこべりついているものが刺激されて、それで怒ったり、批判したり、したのではないかと思います。


でも、それも悪いこととは言えませんね。だって、誰だってそうですから。琴線は人によって違いますが、そういう部分は誰にだってあります。

と、と、

お得意の脱線が出ました。



しかし、変わるというのはですね、やっぱ、相互作用ですよ。

特に社会というのは個人の集合体だから、個人が変わらずに社会が変ることなんて、なかなかないと思います。

中には革命を起こそうとする人もいるかもしれませんけど、自分の中に革命を起こさないで、他所の人を血祭りに上げることで革命を起こそうなんて、フェアなのかどうか。その血祭りに上げようとする対象が、本当にそれに足る悪なのかどうか。悪だとしても、そういう血祭りの上げ方をしていいのかどうか。

そういうのを忘れると、人を悪鬼だと称して血祭りに上げようとする人たちが、自分のしたことによって、悪鬼になるかもしれませんよ。違いますか?



いや、本当に脱線してしまいました。

でもね、私がメディアに腹を立てる点が、こういうところにあるんですよ。そりゃもちろん、私だって他人のことは言えません。そういうところがある。

でも、できるだけ直そうと思うし、それをやらねば生きてゆけんのでしょう。

それに幸いだかなんだかしりませんが、私には大した影響力がありませんからね。

一方、メディアの影響力は強大だ。

だからこそ、社会を変えようと思うなら、その影響力のあるメディアが、自らの姿勢を省み、変わらねばならないのだと思うのです。

また、変わることができれば、有権者だって、政治だって、相乗効果で、いくらでも変わるでしょう。




もう、けっこう、待ったなしかもしれませんよ。

テレビ好きがテレビ嫌いになろうとしてるんだ。


人間でも、社会でも、

相手に「変われ、変われ」と言っているうちは、なかなか変わらんもんです。



「もういいや」

それが何を意味するのか、考え時かもしれない。


今痛むことで、本質的な破滅を回避するか。

今痛まないことで、本質的な破滅に突き進むか。


ま、こういうのは何もメディアにだけ起こっていることではなくて、社会で、あるいは、もっと身近で、いろんなところで生じていることだと思う。

だから、メディアだけのこととして、考えるものではないんだけどね…




書こうかどうか迷ったけど、

メディアというのはダメな大人の体現だ、

ということ。

(そういう意味では、メディアは投影先であって、影は我々自身や身近に持っているというのも、その通りです)



だから、メディアだけがどうこうという話では、実は、ない。





【おまけ】


103 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2008/12/26(金) 00:14:27.86 ID:Wc7kTgIR0
マスコミをより速やかに解体させるにはどうしたらいいですか?
無用の長物なので再建もさせたくありません

>>103
ツブしたいんなら見ない聞かないモノ買わない周りに奨めないが正解。
ただ、オイラは将来的にそれだと困るんだよな。







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「他人を攻撃する人は自らも安全ではない」

レオナルド・ダ・ヴィンチ





多くの人が他者を攻撃する性質を持つならば、自然、自らや自らの大切な人も攻撃の対象になり得るのでしょう。

多くの人が他者の一部を取り上げ嘲笑するならば、自然、自らや自らの大切な人も嘲笑の対象になり得るのでしょう。

多くの人が一部を取り上げ、まるですべてであるかのように語るなら、自然、自らや自らの大切な人も、自分のしたことや言ったことの一部を取り上げられ、まるでそれがすべてであるかのように語られるのでしょう。

多くの人が間違いを嘲笑するならば、自然、あなた自らやあなたの大切な人も、ひとつの間違いを取り上げられ、それを広められ、多くの人に嘲笑されるのでしょう。

多くの人が人の話を聴こうとしないなら、自然、わたしやあなたの話もまた、しっかり聴かれることはないのでしょう。

多くの人が成果を正等に評価しないなら、自然、わたしやあなたの成果もまた、正当に評価されることはないのでしょう。

多くの人が悪意ある伝聞を検証もなしに信じるなら、自然、わたしやあなた、またその大事な人までもが、悪意ある伝聞の脅威に曝されるのでしょう。

多くの人がこれらをやめないなら、自然、わたしもあなたも、わたしやあなたが大切に思う人も、いつかこれらの被害に遭うのでしょう。





多くの人がそれをする時、自然、わたしもあなたも安全ではありません。

だって、多くの人が、それをしているんだもの。

被害者になるかもしれないし、加害者になるかもしれない…





レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上   岩波文庫 青 550-1
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 岩波文庫 青 550-1





わたしもあなたも、その渦の中にある時は、それと同化しているので気づかないのでしょう。

しかし、その渦の脅威に曝された時は…





【追記】

一応断っておくと、攻撃や攻撃的な感情のすべてを否定するわけではありません。ここで言っているのは、むしろテキトーな攻撃。テキトーな理由での攻撃。

よく意味が分からなかったり、まるで渦に呑み込まれるかのようにして、多くの人があたかも理性を失ったかのように攻撃したり、事実関係の確認もなしに非難するといったもの。

だから、そうでないものについては、また別です。怒りの感情は時に、存分に流したほうがよい時もあります。ただし、行動化を避けながら、ということになりますが。





「言葉の目次」





【関連記事】
「イライラする理由/どうしてイライラするのか?」
「マスコミの中にある布置」




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我々は、ある社会の中で生きます。ある文化の中で生きる。ある家族の中で、ある集団の中で、ある価値観の中で、生きる。

そんな中で、独自の道徳観を育て、身につけてゆきます。

それに関係するのが、前に書いたペルソナですね。

何が善くて、何が悪いのか? 正しい行為とは? すべきことは? 守るべきことは? 従うべきことは? してはならないことは何か?

それらを学んでゆきます。

我々は人間であり、獣ではないので、好き勝手には生きない。秩序を守って生きます。



しかし、道徳を守るということは、制限を己に課すということでもある。部分部分で、自分を縛り、自由を奪うことになる。

怒りに任せて人を殴るわけにはいかず、欲しいからといって奪うこともしない。

小さい頃など、多少そういうところもありながら、だんだんと矯正していきます。

ただ、人間には感情や衝動というものがあるので、怒りもあれば、欲もある。何かに惹かれたり、嫌悪感を抱いたり、何かをしたくなったり、したくなくなったりする。

それが時に、社会の規範から外れているものだったりすることもあるでしょう。

我々はそれを、個人的無意識の中に追いやります。

無意識の内に、自分自身の心の平安を保つために、それを個人的無意識にある押入れやポケットのようなところに追いやり、隠す。

まだ幼い自我を守るために、あらゆる防衛機制が駆使され、脅威となるものは退けられます。

その社会で、文化で、何らかの集団で、タブーになるようなものは、意識にさえ上らないように、追いやられる。



ひとりの人間の中にあって、ただし、規範や道徳から外れそうなものは、抑圧や否認、同一視や投影などによって、自我に認識させないように隠される。あるいは、ある種の罪悪感に関係するようなものも、そうなる。

それらは消し去られたわけではなく、隠されているだけです。目に触れない場所に、そっと移動させられているだけ。

自我は、それを徹底的に否認しようとします。自分の中にそれがあることを認めず、激情を持って、否定する。逆に、それを他者の中に見出し、一生懸命に否定することで、自分の中にあるそれの存在を忘れようとする。



前に、我々人間は自分のことが見えないように作られている、といったようなことを書きました。それは上記のような点においても、その通りなのです。

自分のしていることに対しては無自覚で、他者のしていることには敏感。自分については無頓着で、他者を嘲笑ったり、非難したりする。「あの人が悪い」と言うことに、一生懸命になってしまいます。



そのメカニズムによって、自分の中にあるものを、他者に投影する。気持ちまで、投影することもある。

自分の中の憎しみを相手に投影し、相手が自分のことを憎んでいるのではないかと、不安になったりする。

自分がバカにしている気持ちを投影し、相手が自分をバカにしているのではないかと、疑う。

自分が得意になりたい(自慢したい)気持ちを投影し、あの人は得意になっている(自慢している)と、腹を立てる。

自分の中にある相手への攻撃性を投影し、相手が自分を攻撃するのではないかと、怖れたりもする。


さらに、このようなものが集団で行われた場合、悲劇が起こる。

生け贄の山羊、スケープゴート[scapegoat]が捧げられる。



しかし、今まで書いてきたようなことは、カタチや程度こそ違えど、誰でも経験することです。

避けられない道だとも言えるでしょう。

影を持たない人などいません。また、影を持つ以上、どうしても投影してしまうものです。人間の作りが、そうなっているんだから。



影を自分の目で見るには、まず、立ち止まること。

前を向いているだけでは、自分の影は見えません。

下を向いたり、振り返ったり、自分の影を探さなくてはならない。

そして、心理的な自分の影とは、だいたいが否定しているものだったり、気に食わないものだったりします。

つまり、影を見る=影と対面する、とは、そんなものを見つめることを意味します。

今まで見向きもしなかったり、否定してきたり、誰かに転嫁していたことを、自分のこととして認めねばならない。

罪だと思っていること、恥だと思っていること、タブーだと思っていること、それらが自分の中にあると、認めることから始まります。

だから、難しいのも当たり前ですね。

他者には簡単に思えても、本人にとっては難しいし、死活問題です。

気づいた途端に、はぁ~~~~~~~~~~~~~~(←気が抜けたり、頭を抱えたりする感じ)、となるような代物。何ともいえない気分を味わうのが、本物の影です。



ひとつには、影になるようなものは、本人にとっては不要だと思われるもの。できれば切り離して捨てたいと思うようなもの。

けれど、本当にそれが要らないものなのかどうかは、また別問題です。

また、それは本人にとって、罪だと思えたり、恥だと思えたり、タブーだと思えたりしますが、これも本当にそうかは、別問題。



さらにいえば、コンプレックスに関連するものがある種のエネルギーを内包していることも、忘れられません。

実際、コンプレックスが関わった時の、あのエネルギー、それを目の当たりにしたことは、誰だってあるのではないでしょうか。

激情といえるほどのエネルギー。

それは確かに、あまりよろしくないカタチだったり、よく分からないカタチで表に出がちです。しかし、カタチを無視すれば、豊富なエネルギーだということにも、気づきます。

激情っていうぐらいですから。

つまり、カタチさえどうにかなれば、よりよいものにも利用可能なのです。



ユング派の分析において一番大変なのは、被分析者が自分の影に直面しはじめるときである。それが難しいのは当然である。影コンプレックスは、罪悪感とか、自分は恥ずべき人間であるという思い込みとか、自分の真の姿が暴露されることに対する恐怖心とかによって、全体に彩られているからである。この過程がとんなに辛かろうとも、堪えなければならない。

なぜなら<自己>の潜在能力や本能的エネルギーの多くは影の中に取り込まれ、そのために全体的人格には到達できないからである。そうした<自己>分裂状態に陥っている人はたいてい、不平をこぼす。
分析が成功して、影が意識化され、被分析者がその内容を直視できるようになれば、より精力的、創造的になり、自分がより全体的になったような気がしてくる。




影はやっかいなもので、その奴隷になると、人間は獣の位置まで下ってしまうかもしれません。

しかし、人間もまた、動物の中の一種であることも忘れられない。

また、その動物的なものの中には、豊富なエネルギーが眠っている。


我々は機械ではなく、感情も衝動も持ちます。故に、芸術性を持ったり、素晴らしい絵画や彫刻、音楽や文章、あるいは自然の姿に触れて、感動もする。場合によっては、生み出すことさえできる。

我々は獣ではなく、それでいて、動物の中の一つのカテゴリーに属する。両方が、その通りなのです…





影の現象学 (講談社学術文庫)
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ジキル&ハイド
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論理が極端に飛躍するなど、突拍子もない結論を導き出してしまう認知の歪み、それが結論の飛躍

順を追うとか、考えを組み立てるとか、そういうものがどこかで抜けてしまいます。そういうものを飛び越えて、答えを出してしまう。部分的には順を追っていても、どこかで飛ばした部分があったり、合理性に欠けたつながりがあったりするので、注意が必要。



「心の読み過ぎ・読唇術」

これは本来読めるはずのない相手の気持ちを悟ってしまうような、認知の歪み。相手から否定的なものを読み取り、現実としてしまいます。

例えば、「あの人は、わたしをバカにしている」とか、「あの人は、自分を心底嫌っている」とか、そう思い込んでしまう。根拠なく、そう信じます。

なので、「なぜそう思うのか」を合理的に説明するのは、難しいようです。


これにはおそらく、投影というものが関係しているのでしょう。

例えば、「勝つ」ということに固執する人の中には、自分の中の勝つという執着を他者に投影し、「みんな勝つことばかり考えている」と言う場合が。あるいは、自分が勝つことにこだわるので、みんなも当然そうだと思い、そんなことを言う場合も。

お金に執着する人だと、「みんなお金のことばかり考えている」と言ってみたり、さらに進むと、「みんなわたしのお金を狙っている」と、突拍子もないことを言いだす場合もあるようです。

怖れを抱いており、それを認めたくない人の場合だと、「あの人はビビってる」とか、そんなことを言うことも。

権力にこだわる人が、相手を権力欲があると批判し、いざ自分が権力の座に就くとどんな状態になっても どこうとしないとか、そういうこともあるかもしれません。

(ただ、読み過ぎの全部に投影が関係するわけでもなくて、単に○○に敏感になっている、というような場合もあるでしょう)


こういうのは割とよくあることですが、「個人がそうである」のと「みんながそうである」のとでは、影響に差が出そうです。

個人が事実や合理性を無視し、「あの人は○○だ」と突拍子もないことを言いだしても、ひとりである場合は、影響はそう大きくなさそう。

でも、周囲の者まで「そうか、あの人は○○なのか」と言い出すと、話は違ってきます。心の読み過ぎという結論の飛躍が、まるで現実であるかのような権威を持ってしまう。現実ではないことが、まるで現実であるかのように、扱われてしまいます。

で、こうなると、当然、選択を誤るわけですね。

何かに固執する人が、それを誰かに投影し、「あの人は○○だ」と心を読み過ぎている時、その渦に周囲も呑み込まれ、本来とは違った前提で、人や状況を見てしまいます。

事実ではないことを、判断材料にしてしまうのです。





「先読みの誤り・間違った予言」

結論の飛躍は、本来分からない相手の気持ちを分かったつもりになる、そんな認知の歪み。

先読みの誤り・間違った予言は、本来分からない未来を分かるつもりになってしまう、そんな認知の歪みです。


未来はあとから来るものなので、どうなるかは誰にも分かりません。多少の推測はできますが、詳細がどうなるかは、なかなか分からない。また、推測する際には、この状況下ではだいたいこうなるという風に、細分化し検討します。

そうやって可能性を導き出すのですが、それでも「こうなるだろう」とか「こうなるかもしれない」といった不確定なもので、決まったことではありません。

が、先読みの誤り・間違った予言だと、そういった検討をしない上に、「間違いなくこうなります」とか「絶対こうなるに違いない」とか、根拠がないのに断言してしまう。


こういうのも、まあ、よくあることといえばあることですが、影響力ある媒体が拡散させると、なかなかたいへんなことに。

一方では、根拠なく暗い未来を予測し、もう一方では、根拠なくバラ色の未来を予測する。

しかも検証は嫌いですから、「こうなってしまうから、たいへんだ!」と慌てさせたり、「こうなるから心配ない!」と注意を怠らせたりと、両極端なことを延々と続けることも。

今までの予測はどうなったのかは振り返らず、「こうなるに違いない」と思ったことを、まるで「実際にそうなる」といった風に権威を持たせ、広めます。


ということは、確定していない、しかもそれほど検証していない、そんな未来を前提にするので、これまた選択を誤りますよね。

何だかよく分からないものに左右され、決めることになってしまう。




このような馬鹿げたことが、実は、世の中では起こっているわけです。

「わたしにはよく分かるんです」と人の気持ちを読んだり、「絶対こうなります」と未来を決めつけたり、そういうことが案外、疑われずに、物事の前提となっている場合があります。


ホント――最近なのかどうかは分かりませんが――世の中ちょっと、どうかしているのかも。

多少そうなのは問題ないですが、多くの人が渦に呑まれるように影響されていくのは、ちょっと困りものですね。



大人の認知の問題、

それも真実を読み解こうとか、そういう高尚なものじゃなくて、

当たり前に理解すべきことは理解できるようにしましょうみたいな、

そういうことが必要なように思います。


目の前のことが受け取れて、それを前提とできれば、そんなに間違わないと思うんだけどな…





未来を変えるためにほんとうに必要なこと――最善の道を見出す技術





失敗百選 41の原因から未来の失敗を予測する







でも、今のところ、みんな、そういうことには興味なさそう。

ということは、そういうことを考えない、そんな未来が来るのかもね。

つーか、既に来てるのか…





<<「暗い未来予想/認知の歪み 社会編(13)」
   「見積もりの間違い/認知の歪み 社会編(15)」


 → 認知の歪み




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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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