ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
例の餃子事件の影響もあって、
食物自給率云々という話もちょくちょくでてきますが、

食物自給率そのものの是非は置いといて、
あるいは、食物自給率を上げることが仮に必要だとして、

では、誰がやるのか?

ということになると思います。


でも、その「誰が」というのが抜け落ちていたり、
結局、「誰かやれよ」的な、

そんなものを感じてしまうんですが、
この辺はどうなんでしょう…



誰が泥にまみれるのか、とか、
その泥にまみれただけの利益(報い・酬い)は得られるのか、とか、
それを値段に反映させた時に買うのか、とか、

そういうのはあまり感じられなくて、

「そんなことは知らないけれど、ともかく誰かやっとけよ」的な、
そんなものを感じてしまう。


汗水たらして頑張って、
でも、その報い・酬いは少なくて、
自然災害が起きたら、とんでもないことになるかもしれなくて、

下世話な話かもしれないけれど、
カッコイイとはいえなくて、

そういうことを考えると、むむむ、と思う部分がある。

また、そういうことを解消するために、
値段を考え直そうとする場合も、
それをはたして買うだろうかとなると、
これまた、むむむ、となってしまう。

やっぱり、安くていい物が欲しい。
(↑この辺の意識は、これから変わるかもしれませんね)

安くていい物を、となると、そこに技術が要るのではないかと思うんですが、
その技術を開発するのだって、人が要る。

それも「誰かやっとけよ」、「政府、何とかしろよ」
みたいな…


何かを成そうとすると、それぞれの「そこ」に人が要るんだと思うんですが、
どうも、それを忘れがちで、

「誰かやっとけよ」とか、
「誰かやんねーかな」みたいになって、

そこには、自分というものがいないし、
人というものも、いなくなっているような気がする。



他の政治的なことにしても、そう。

まあ、政治というのは、その「誰か」を選んで、
自分たちに代わって、政(まつりごと)を任せるものかもしれんけども、

その「誰かを選ぶこと」まで、「誰か選んどけよ」みたいになって…





いろんな問題なり事件なりにしても、

政府、しっかりやっとけよ!
政治家、しっかりやっとけよ!

警察、しっかりやっとけよ!
病院・医者、しっかりやっとけよ!

企業、しっかりやっとけよ!

誰か、しっかりやっとけよ!


そりゃまあ、そうなんだけど、
言ってる本人が、目の前の些細なことを、
しっかりやれているかどうかも、あやしいもんだ。

(もちろん、私も、ですが…)



「しっかりやれよ」と言われるには、
言われるだけの理由があったりもするけども、

時に、そうでもない、場合もあるように思います。
(そうなんだけど、そんなにそうでない、とか…)

また、程度というものもあって、

言わなきゃなんないんだけども、
人間というものを考えた場合、
(あるいは、人間だから、ということを考えた場合)
「まあな…」という部分もある。

言うにしても、
それを踏まえて言うのと、
それを踏まえないで言うのとでは、
ちと違うでしょう。


しかし、
「誰かやっとけよ」となると、

誰かというのは、人間の顔ではなくて、
むしろ、白いお面か何かのような感じがするので、

人間に対する「それ」は、なくなるか、
なくならないまでも、すごく薄れるんじゃないかと思う。



ましてや、
誰かは誰かであって、
つまり、自分とは切り離された誰かなんだから、

何とでも言える。

自分でも、身内でも、知り合いでもないので、
いくらでも言える。

そこに人間はいないので、
平気だ。


遠くの誰かに、「やっとけよ」的な…



で、我々は、「誰かやっとけよ」では何も変わらないことを、
人生を通して、それなりに知っているもんだと思うのだけれども、

どうもね…



誰かやっとけよ、では仕事は回らないし、
誰かやっとけよ、では食器は片付かないし、

誰かやっとけよ、では目の前の問題は解消されない。

まあ、「誰かやっといて」と思うのは人情だし、
ある程度は助け合いで、誰かにやってもらわないと回らないのだけども、

その時には、人間の顔が前にあるんだから、
「ありがとう」の気持ちぐらいはありそうだ。

(忘れがちといえば、忘れがちだけど…)



「誰かやっとけよ」にしても、
それぞれが引き受ける、取り分みたいなものがあって、

自分の分を引き受けて、それをそれぞれがこなしていくから、
世の中が回るんであって、

自分の引き受ける分をやらないで、
みながみな「誰かやっとけよ」「誰かやんねーかな」なんて思ってたら、
とてもじゃないが、世の中回らない。

まあ、人間だから、そういうものは少なからずあるけども、
その部分がやたらと多くなると、
組織なり集団なりは、立ち行かなくなる。

あるいは、非常にしんどい思いをする人がでたりする。



「誰かやっとけよ」ばかりになると、
自分でする気はとんと無いわけだし、

誰かがやったらやったで、よかったよかった、と思うばかりで、
――あるいは、それさえも思わないで――
のんびりしたもんになる。

一方はのんびりしたもんで、
もう一方は、ストレスの塊。

でも実は、前者もそれにうすうす気づいてたりするから、
両者、ストレスの塊。

(あるいは、それぞれの場面で、その構図が入れ替わったりもする)


そして、両方が「誰かやってくれねーかな」なんて思い出すと、
目の前のものは処理されないままだから、
問題はふくらむばかりで、
これはもうたいへん。

誰も何もやってくれないまま、
怖ろしいものだけがふくらんでいく。



まあ、「誰かがやらないと回らない」というのは、その通りなんだけども、
その「誰か」というのも人間なんだし、

自分だって、その「何かをやらねばならない、誰か」なんだから、

そうそう他人事ではないと思う。

そういう意識が少しあれば、
「誰かやっとけよ」的な、
メチャクチャな言い様も、少しは収まるような気もするし、
(もう少しやわらかくなるような気もするし)
目の前の、自分のすべきことにも、少しは目が行く気がする。


そうやって、やっと、世の中が回っていくんでしょう…



結局、我々一人ひとりが、目の前のやるべきことを、
不承不承ながら処理していかない限り、

問題なんて解決せんのだから…




【追記】

まあ、「誰かやんねーかな」や「誰かやっとけよ」と言ったり思ったりするのも人間で、
それも人情なんだし、そこにも顔や思いがあるんだから、
難しいんだけども…



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Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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