ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
「個性化と松の種(1)」からの続き…)

前回は、“個性化の過程”を松の成長に例えたものを、紹介しました。

ただ、人間のそれは、松とは違った様相を持つといいます。人間にのみあると思われるもの、“自我”が、そこに深く関わってくる。



しかしながら、人間は上述の松の木の比喩に含まれていない何ものかを経験する。個性化の過程は、生来の全体性の胚種と、運命による外的な作用との妥協以上のものである。主観的な体験によって、われわれは何らかの超人的な力が、創造的な方法で積極的に介入しているという感じを受ける。ときとして、秘められた計画にしたがって、無意識が自分を導いていると感じられる。それはあたかも何ものかが自分を見ているかのようである。それを私は見ることがないが、それは私を見ている。――たぶん、夢によって私にたいする意見を告げる心のなかの“偉大なる人”なのであろう。

しかし、この心の中核の創造的で積極的な面は、自我がすべての意図的な、あるいは、願望による目標を投げ捨てて、より深く、より基本的な存在の形態にいたろうとつとめるときにおいてのみ作用するのである。自我は何らの計画や目標ももたず、成長への内的な要請に注意深く耳を傾け、身をゆだねることができなければならない。

(「下巻 個性化の過程」P11より)




我々に内在する“なるべき像”があるとしても、それを生きぬ限り、それは実体化も実現もしません。

我々が それ を生きたり、具現化するには、ある程度の意識化・意識的な関与が、必要になる。


ここに矛盾があり、難儀な点があります。

“なるべき像”は無意識の中にある。なので、それそのものは見えない。

そういったものに自我が関わろうというのですから、難しい。


また、社会的な“なるべき像”と個人的・個性的な“なるべき像”というのは、往々にして相反するものなので、生きる上において、非常に難儀する。

後者が強い時は、どうしても、場を乱す者や問題児のレッテルを貼られやすい。

とはいえ、こういう内在するものの押し上げは、自我にはどうにもできない部分があります。

内的な“なるべき像”は、理屈やなんやを越えて目的を達成しようとするので、どうしようもない。

(感情がそうであるように、成長因子の要求をコントロールすることは難しい。それは向うから勝手に来るものだから。ただ、その一方で、感情がそうであるように、成長因子が人間を豊かにすることもある。もっとも、苦境に立たせることもありますが…)



個人的な“なるべき像”と社会的な“なるべき像”。

この葛藤により、本人も、周囲も、疲弊してしまいそうです。



が、どうしようもないなら、それなりの付き合い方もあるもので、それを前提とする生き方っていうのもある。

今まで抑え込もう抑え込もうとしてきたが、どうも、無理なようだ。

そうなると、別の方法を探すことになります。

頭打ちになれば、方向転換するようになる。


いったん、自我の意図的な願望や目的を、棄てる。あるいは、保留する。

逆に、内部から噴き出すものを、そういうものだと認める。

(善い悪いは別にして、そういうものだと)

そしてできれば、耳を傾け、身を任せてみる。


こういうのは、「そうすべき」だとか「そうするとよい」というものでは、決してありません。ましてや、「それをやれば必ず成功する」といったものではない。決して、ない。

ただ、「そういうもの」という気はします。結果そうなるよね、といった趣はある。

いろいろ試して、それでもどうしようもないものは、「ああ、そうなのだ」と前提にするのも、ひとつの手だと思います。自身において認めざるを得ないというものは、出てくるものだと思う。

そこにあるものは、そこにあるもので、それを前提として、考えればいい。

自我が強い時は、それを善悪に切り分けようとし――そして、そういうものはだいたい、困ったものなので――何とか抑え込もうとしたり、切り離そうとしたり、消してしまおうと考える。

でも、人間が自然をコントロールできないように、「そういうもの」というのは、コントロールのしようがない。それが、だんだんと分かってくる。

というか、頑張っても頑張ってもどうしようもないので、自我が折れるしかなくなる。

程度の差こそあれ、またカタチは違えど、そういうプロセスを経ることは、少なくないような気がします。


というわけで、自身の中にある“なるべき像”の突き上げにしても、自我はいろいろ抵抗するのですが、やがて、諦めの境地のようなものが来て、抵抗を放棄し、出てくるのを受け容れ、様子を見るようになる。(それしかなくなる)

あるいは、運命的な要素の強い人は幼い頃にそうなっており、代わりに身近な大人が、上のようなことを経験することになるかもしれません。すなわち、子供をどうこうすることを放棄し、どうなっていくのか、どうなろうとしているのか、様子を見るようになる。




われわれの態度は、前述の山の松と同様でなければならない。すなわち、それは、成長が石によって妨げられてもいらだつこともなく、また、それを、どのように克服するか、計画をたてることもしない。ただ、左に伸びるか、右に伸びるべきか、あるいは、傾斜に沿うか、沿うべきではないかを感じとろうとするのみである。この木のようにわれわれも、ほとんど目に見えないが力強く支配的なこの力――独自の創造的な自己実現に向かう衝動から生ずる力――に身をゆだねるべきである。

(「下巻 個性化の過程」P14より)





人間には、(大まかにいうと)ふたつの生き方があります。

ひとつは、自我が積極的に関与した、意識する生き方。目標や目的を持ち、そうなるように、そうなれるように、邁進する。

もうひとつは、無為の生き方。意識的な手を加えない、自然に任せた生き方。

個性化に関しては、後者が強調されています。

ただし、意識的な関与がまったくないのではなく、内なる自然を観察する目や、後にそれに関与していく自我が、望まれている。



そして、こういうものは、マネできないものだともいいます。



そして、これは、個人が繰り返し探索し、そのなかに、いまだ誰にも知られていない何ものかを発見するひとつの過程なのである。指導的なヒントや力は、自我から生ずるのではなく、心の全体性すなわち自己から生ずるのである。

しかも、他人が発展させつつある道筋を盗み見するのは無用のことだ。それは、自己実現の仕事は各人にとって独自のものであるからである。人間の問題の多くは似通ったものであるがけっして同一ではない。すべての松の木は非常によく似ている。(さもなければ、われわれはそれを松として認めがたい。)しかし、正確には、どのひとつもまったく他と同じではない。このような類似と差異の要素のために、自己実現の無限の多様性を要約することは困難である。実際、各人は何か他人と異なったもの、つまり、自分自身の固有な何ものかを成しとげなければならないのである。




我々は時に、手っ取り早いモデルケースやマニュアルを欲しますが、それは難しいと。

己の人生は、己で生きるしかない。

己になろうとする行為は、他者を真似ることとは逆である。

もちろん、参考になる生き方もあるけれど、細部において同一とは限らない。

それを真似ようとするのは自我の試みであって、自己のそれではない。また、自我をゆるめ身をゆだねるという姿勢と相反してしまう。



自我の制約によりどん詰まりになった時は、内在する設計図に身を任せ、自分の中にある何かがどうやって成長しようとするか、どこに向かって伸びようとするか、まずはそれを観察するのも、手かもしれません。

そして後に、自我により、それに関与すればいい。


ふたつの目で見る以上のもの、あるいは、ひとつの頭で考える以上のものが、そこにはあるかもしれません…





人間と象徴 下巻―無意識の世界
人間と象徴 下巻―無意識の世界



子どもと悪 (今ここに生きる子ども)
子どもと悪 (今ここに生きる子ども)





(「はじめは苦難のカタチで」に続く…)




他者を安易に真似るのがどういうものであるか、それを日本の昔話は教えてくれているのかもしれません。

花咲か爺、こぶ取り爺など…


ただ、真似から入って、自分独自のものを形成するという面は否定できず、また、誰でもそうなので、この辺の切り分けは難しいですね。

「守・破・離」、これもよくできたプロセスだと思います…





「人間と象徴の目次」





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生息地:関西
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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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