ニュースKOBE発の「インタビュー この人に聞く」に、妖怪博士である香川雅信さん(兵庫県立歴史博物館 学芸員)が出演されていました。
その中で出てきたのが、以下のような話。
我々の生活の中にも、妖怪に縁のあるものが残っていたりする。
例えば、電話の「もしもし」は、もともとは電話の相手が妖怪ではないことを確認するために行なっていたんだという説がある。
普通、人に呼びかける時は「もし?」というのを使っていたが、「もしもし」と2回繰り返すことで、妖怪は返事ができないらしい。
というわけで、人間に化けている妖怪を見分けるには、「もし?」と呼びかけるのではなくて、「もしもし」と2回呼びかける。
電話口では相手の姿を確認できないので、妖怪ではないことを確かめるために、「もしもし」と2回言うと。
そんな説があるそうです。
妖怪は、アニミズム(自然界の事物に霊魂や精霊などの存在を認める考え方)との関係が指摘されたりします。
香川さんは番組で、妖怪とは人間の自然に対する怖れというものがカタチをとって現れたものではないか、と話されていました。
私も妖怪というのは、人間が未知なるものを理解しようとしたひとつのカタチ、なのではないかと考えます。
今では常識となっている、自然現象なり、病なり、いろんなことも、当時の人にとっては、未知な、理解不能の、怖ろしいものとして映ったのではないでしょうか。
(今でも、どれだけ理解しているかは、あやしいですが)
訳の分からない、自我の許容量を越えるものを、何とか理解し、飲み込もうとする。そのひとつの手段が、妖怪だったのではないかと。
そういう意味では、妖怪というのは、「実際に見たもの」だと言えるのかもしれません。
ただしそれは、誇張されたりするし、印象に残った部分が拡大されて描かれたりもする。
あるいは、実際には見えないもの(心の動きや受け取ったもの)が、言葉(物語)や絵として、実在化される。
だから、実際に見たものだけれど、誤解もある。見間違いもある。
心の動きを実在と混同することもある。(内的現実と外的現実)
というわけで、「妖怪はいる」ということと「妖怪はいない」ということは、両方、その通りだということになるのかな、と。
大辞林によれば、妖怪とは
「日常の経験や理解を超えた不思議な存在や現象」とあります。
こういうのは今でもあるし、当時では、今よりもっとあったでしょう。
そういう意味では、妖怪はいた、あるいは、妖怪はいる、ということになる。
ただ、
「山姥・天狗・一つ目小僧・海坊主・河童・雪女など」という、細かく設定したものになると、少し違ってくるのかもしれません。
もともと、時代時代の常識を超える存在を妖怪だとしたのだとすると、常識を超えたものを枠の中に収めようとした時点で、本来の意味が消失してしまう部分があるのかもしれない。
といっても、前述の通り、妖怪を人間が常識を超えるものを理解しようとするひとつの手段だと解釈するなら、細かい設定をもうけたり、枠に入れようとするのも、分かるような気もする。
と、グダグダといろいろ書きましたけど、人間に心がある以上、不可思議なものは見るわけだし、その時代時代で理解を超えるものと出会うこともあるわけで、それを「妖怪」として、心に収めようとしたり、あるいは共有したりするのは、ありなのかと思います。
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『兵庫県立美術館-「芸術の館」水木しげる・妖怪図鑑』
江戸の妖怪革命
水木しげるの遠野物語 (ビッグコミックススペシャル)人間や自然の一部を拡大解釈したら、ひとりでに妖怪が生まれてきそう。
インパクトのあるものは、自動で拡大解釈させるところがあるだろうし。
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