ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
“元型”と“集合的無意識”について、もう少し――


いきなり話が横道にそれますが、人間が物事を修得するというのは、経路を確立することに似ています。

練習、反復することにより、それをするのによい経路を見出し、さらに固定化する。

例えば、野球のノックを受けながら、どうするのがいいのか、体で学ぶ。腰の位置はどうか、手はどうするか、タイミングは、次の動作は、などなど、体全体、脳をも含めて、修得して行く。

それを繰り返すことで、経路は確立されてきて、だんだんと自然と体が動くようになってくる。



こういうのはテレビ・ゲームでも同じで、何度もやる内に、効率のいい方法を覚え、そのうちに身についてくる。

一度身につくと、自然と動くようになり、ミスが少なくなります。

反応もスムーズになり、一瞬に対して反応するというよりは、一連の動作として動くようになる。



物事を繰り返すうちに、一番効率のいい経路を見つけ、それを確立し、その動作に入ると同時に、まるで流れるように、終点にまで至る。そんなことが起こる。

一度覚え、繰り返し使ったものは、経路が確立され、次からはスムーズに使えるようになる。

パソコンのキータッチだってそうで、はじめはゆっくりだったものが、だんだんと慣れてきて、そのうち、ほとんど意識しなくても、スムーズに打ち込むことができる。

(すべてにおいて、ある程度は、ということになりそうですが)



イメージするなら、繰り返し使うことで溝を掘ることになり、そこに経路のようなものが確立されて、水さえ流せば、ほぼ自動に終点まで流れるようになる。

はじめはゆっくり導いてやらねばならなかったのが、経路が確立されると、そんなには意識しなくてもよくなる。

自然と、スムーズに、運べるようになる。

これには利点があって、脳や意識に容量がある以上、その動作に意識を割くと、他に使えなくなる。が、経路が確立されて半自動のような状態になると、他に意識が使える。あるいは、簡略化されるので、助かる。

ただ、半自動の怖さというものがあって、こういうのは無意識の内に決め付けてしまうとか、そういうマイナス・ポイントもあります。

意識しないので助かるけど、意識しないことで危なくなることもある。





また話が変わります。

我々は共通のイメージを持ちます。

例えば、“雷(カミナリ)”。

雷に対し我々は、恐怖なり、畏怖の念なりを、持ったりするでしょ? ゴロゴロ鳴っただけで怖いし、稲光を見て身がすくんだりする。近くに落雷なんかあったら、もう…。


でも、なぜ、怖いのでしょう?


雷の実害にあった人は、そんなに多くないのではないでしょうか? いないわけではないでしょうけれど、誰もが体験しているわけではない。

でも、怖いですよね。ものすごく、腹の底から怖い。

落雷によって生じる被害を想像できるから?

確かに、想像できるかもしれないけど、いちいち想像して怖がっているのも、ちと違う感じがします。

それよりはむしろ、「雷は恐ろしい」というのが、人間に深く基礎付いているようにさえ感じます。

はじめから、「雷は恐ろしい」というのが、備わっている。まるで、強烈な経験をしたかのように。



“経験”という意味では、雷に対し、個人的に怖い経験をした人は、そう多くなさそう。だから、「雷は怖い」という強烈な感覚が、個人的な経験から来ているわけでもなさそうです。(もちろん、経験した人はまた別ですけど)

というよりは、普遍的にそういう感覚を持っている。まるでそういう強烈な経験を過去にしたかのような、そんな感覚を、なぜかほとんどの人が持っている。

単に大きい音にはビックリするのではないか? という意見もあるかもしれませんが、何というか、そういうものを越えて、腹の底から怖くありませんか? もう、何や知らんけど、ものすごく怖い。





このように、我々には、生まれつき備わっていると思える、そんなイメージがあるようです。個人的な経験ではない共通のイメージを、生得的に有している。

例えば、両親、妻、子供、誕生、死、これらを――実際とはまた別に――イメージとして有している。

実際の両親、実際の妻、実際の子供、実際の誕生、実際の死、そういう個人的な経験に基づくイメージや記憶もあるでしょう。だが、それとは別に、両親というもの、妻というもの、子供というもの、誕生というもの、死というもの、そういった、一般的なイメージも有しているはず。

互いがわりと似通っていたり、あるいは、全然違っていたり。そういうことがありながら、実際というものと、もっと広いイメージと、両方を持つ。

(もう少し分けると、個人的なイメージと普遍的なイメージの間に、文化的なイメージもありそうですが、ここでは触れません)


前者は、実際の体験を元にしているだけあって、意識的です。一方、後者は、実際とは別であり、そのイメージははっきりしない。おぼろげで、無意識。カタチがあるようで、カタチがない。

前者は個人の記憶であり、後者はもっと広い集合的・普遍的な記憶。


このことについて、A・スティーヴンズは以下のように書いています――


それらのイメージは経験的事実と遭遇することによってはじめて、確固たるものとなり、影響力をもつようになり、ついには意識的なものとなる。経験的事実は無意識的素質に接触し、それを活性化するのである。

これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない。




例えば、雷は、それにより被害を受けた経験があろうがなかろうが、誰にも怖い。思わず身を縮めてしまうようになっている。

現実世界に具現化されている何らかの「それ」に触れる時、目の前のそれと共に、無意識にある要素が活性化され、より心に訴えるものが出てくる。

雷鳴を聞くとき、目の前の雷と共に、腹の底にある何かが共鳴し、ものすごく怖くなる。



「これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない」


例えば、死に際し、個人の経験がひとつに集積されるとしましょう。

人は生まれ、やがて死ぬ。その間に、いろんな経験をする。それが集められたら、どうでしょう?

恐らく、混沌としたものになる。何が何だか分からない、ごった煮の状態。(あるいは、原始の地球のよう?)

が、それらは基本的に似通った、幾つかの方向性なり何なりを持つと仮定できる。どろどろの中の部分部分が、芯のようなものを持つ。

いろんな国、いろんな地域、いろんな時代、そこに生きた、いろんな人たち。一見バラバラに見えるその人たちの経験も、その中で、共通の傾向を持つ。

地域が違おうと、文化が違おうと、人種が違おうと、同じようなものはある。

仔細は違う、でも、概ねは同じだったりする。そういう、根源を同じくしたようなものが存在する。

それが“元型”です。

すべての人間の経験を集めた、広く濃厚なスープのようなものが、ある意味では、“普遍的無意識・集合的無意識”。そして、その中にある、幾つかの根源的な傾向が、元型。

仔細は違っても、人間は、根源的に共通した父なるもの、母なるもの、影なるもの、そういったものを経験するし、また、それは集められて受け継がれる。



例えば、ある種の鳥にとって危険な存在があったとしましょう。そんなものに遭遇したら、殺されたり、たいへんなことになる。

それが極々個体的な経験であれば問題ありません。たまたまその個体がそうなった、というだけです。

しかし、種として問題になるほど多くの、そして大きな、経験であったとするなら、それは彼らの経験の集合体の中で、確固とした芯を作るでしょう。

○○は危ない、○○に遭遇すると命を失う、そういった数多くの、そして強く深い経験が、確立してくるのです。

それはやがて、これから生まれるその種の鳥たちに還元され、その鳥は個体としての経験がなくても、天敵のような存在を目にするや、一目散に逃げ出すようになる。

以前怖い目にあったからとか、仲間たちがどうにかされたからとか、そんなことは関係無しに、生まれながらに備わった性質として、「それ」を見たら逃げ出すのです。



一番最初に、経路の話をしましたが、人生の中で個人的な経験として確立させる経路もあれば、このように、生まれる前から備わっている経路もあると、そう仮定できます。

A→X、B→Y、雷と遭遇した時に内から出てくる何ともいえない感覚、海を眺めている時に生じる個人的な経験を超えた不思議な感覚、そういうものがあるんですね。


「これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない」

そして、こう言うように、これはもはや経験ではなく、確立された経路のようなものなのでしょう。



これについて、ユングは以下のように述べています――


ユングによれば元型は「遺伝的に継承された観念」ではなく、「継承された機能様式であって、それはちょうどヒナが卵からかえるような、鳥が巣を作るような、ある種のスズメバチが毛虫の運動神経節を刺すような、あるいはウナギがバーミューダ諸島への行き方を見出すような、生得的なやり方に相当する。いいかえれば、それは『行動パターン』である。元型のこの側面、すなわち純粋に生物学的な側面こそが、科学的心理学の本来の課題である」




我々の中には、人類の経験と共に確立された共通の経路のようなものがある。

それは無意識だけど、「それ」につながる目の前の「それ’」に出会うとき、知らず知らずの内に、影響される。

個人の歴史を越えた、人類の歴史。その過程で刻まれた、深い溝。その溝に水が注がれるとき、ある程度決まった流れ方をする。



目の前にある実際のものを「それ’」、無意識の中にあるもっと根源的なものを「それ」とする時、「それ’」は「それ」の持つ多面的な要素の、ひとつのカタチでもある。

例えば、実際の「父性の体現者」は、根源的な「父なるもの」の内、幾つかの要素を体現する。まったく違うものなら両者は共鳴しないが、深い層で関わり合いを持つので、共鳴する。

ただし、「父性の体現者」=「父なるもの」ということではない。むしろ、「父性の体現者」が「父なるもの」の中に含まれる。

目の前の「父性の体現者」が、根源的な「父なるもの」の一部を体現しているに過ぎない。

一部としてはイコールだが、全部という意味では、イコールではない。はるかに広くはるかに深い「父なるもの」に対し、この世に具現化する「父性の体現者」は、あまりにも局所的なのです。

個人が宇宙樹の枝先であるように。



我々は、経験することにより、経路を確立する。

繰り返しやったことが身につくというのも、これに当たると思われる。

これは感情的なものにもいえ、何度も同じような(感情的な)経験をすると、そこに深い溝が掘られ、経路が確立される。

あるいは一度の経験でも、それが強烈なものであった場合、溝は深くなり、経路は確立されてしまう。


ただ、これらとは別に、生得的なものもありそう。

個人の経験を超えたもの。時代、文化、地域、それらを越えた、経験の集合体と、その中に見出すことのできる型。

それが、普遍的無意識・集合的無意識であり、元型である。

そう仮定できます…





自己実現の心理学―元型論入門
自己実現の心理学―元型論入門





ユング心理学概論の目次




関連記事
[サイト内タグ]:  ユング  個性化  無意識  元型



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ


■ 最近のエントリ

■ 人気ページランキング


↑ページトップへ




// HOME //
Powered By FC2ブログ.
copyright © 2005 枕石漱流 日記(ユング心理学の視点から) all rights reserved.
ブログパーツ アクセスランキング
■ Amazon
■ 注目記事
■ アーカイブ
■ カテゴリ

■ 月別アーカイブ

■ 検索ぷらす


【注意】 ENTERキーだとうまく表示されないようです。申し訳ございませんが、ボタンを押してください。

■ キーワードハイライト機能

検索時、検索語句がハイライトされます。

■ BlogPeople リンクリスト

リンク集と更新状況↓



☆登録する by BlogPeople☆

■ RSSリーダーに登録

 RSSリーダーで購読する

 メールで購読する


(リンク切れを修正しました)


■ 最近のトラックバック
■ スポンサードリンク

■  
■ スポンサードリンク



■ 最近の記事
■ カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

■ FC2カウンター



現在の閲覧者数:

■ プロフィール

南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


日記について


拍手する

プロフ
電脳露店マイアソシエイトストア
おバカ映画

■ リンク
■ RSSフィード
■ インフォメーション


検索サイトiscle
(検索サイトさんです)

■ QRコード

QRコード

携帯でも御覧になれます。

■ 地域情報



ジオターゲティング





■ にほんブログ村

■