ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
年初の記事で書いたとおり、最近ユングについての記事を掲載していないので、一度、全体にわたって簡単に解説したいと思います。

ただ、元が難解なものなので、どこまで説明可能かは未知数です。しかし、私には武器がある、そう“あまり上等でない頭”という武器が。

私は天才でもないし上等な脳みそも持っていませんので、物事はある程度、噛み砕かないと十分に理解できません。ということは、理解する過程で自分で理解しやすいように咀嚼しているはずなので、それを使って何とかやってみます。

特にどう書くかは考えていないのですが、以前読んだ アンソニー・スティ-ヴンズ著 鈴木晶訳「ユング」という本、それを読んだ際のメモ書きを元に、進めたいと思っています。


ある程度定期的になるか不定期になるかはテンションと体調次第ですが、よろしく御願いします。





【ユング心理学概説】

[01] 「無意識の人格化と個性化」
[02] 「元型と集合的無意識」
[03] 「無意識の中の蓄積 集合的無意識と元型」

人生の諸段階
[04] 「自己と自我」
[05] 「ペルソナ」
[06] 「影」
[07] 「影コンプレックス」
[08] 「カテゴリ 男と女」
[09] 「父なるもの 母なるもの」
[10] 「アニマ、アニムス、自己調整システム」
[11] 「人生のプログラム」
[12] 「前進の力学」
[13] 「求めるもの」
[14] 「正午の鐘」
[15] 「個性化と夢」
[16] 「個性化とは」


心理学的タイプ
[17] 「二つの態度と四つの機能」
[18] 「八つのタイプ」

[19] 「外向的感覚型」
[20] 「内向的感覚型」

[21] 「外向的思考型」
[22] 「内向的思考型」

[23] 「外向的感情型」
[24] 「内向的感情型」

[25] 「外向的直観型」
[26] 「内向的直観型」

[27] 「類型論の用い方 そして 解放」

夢の源泉
[28] 「自然なるもの」
[29] 「夢の補償作用」
[30] 「夢の象徴表現」
[31] 「夢の拡充 4つの段階」

精神療法
[32] 「精神療法(1)―聴かないと分からない―」
[33] 「精神療法(2)―物語が人を癒す―」
[34] 「精神療法(3)―魂の充足―」
[35] 「精神療法(4)―ひとりの人間として―」
[36] 「精神療法(5)―個人的理解が役に立つ―」

[37] 「精神療法(6)―意識する苦しみと意識しない苦しみ―」
[38] 「精神療法(7)―アルス・スパギリカ(錬金術的技術)―」
[39] 「精神療法(8)―最初の関門―」
[40] 「精神療法(9)―能動的想像法―」



ユング (講談社選書メチエ)
ユング (講談社選書メチエ)



ユング心理学入門―“心理療法”コレクション〈1〉 (岩波現代文庫)
ユング心理学入門―“心理療法”コレクション〈1〉 (岩波現代文庫)



図説 ユング―自己実現と救いの心理学
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A・スティーヴンズは、ユングがバーゼル大学に提出したという学位論文「いわゆる心霊現象の心理と病理」の中に、後に彼の心理学の中核となる、二つの考え方の源を見出しています。それが以下の二つ――



(1)無意識的な心のなかに存在している部分人格、あるいは「コンプレックス」は、トランス状態、夢、幻覚などにおいては「人格化」することがある。

(2)人格発達の真の作業は無意識のレベルで進行している。




「無意識的な心のなかに存在している部分人格」とは、何でしょうか?


例えば、我々は自分の感情、あるいは態度や行動を、知らず知らずの内に、抑圧していたりする。我々の中には、ルールや囚われ、恐れなどがあり、それらが知らない間に強固なタブーを形成し、本来表に出るものを抑えつけ、無意識に追いやっていたりするのです。

ある時は、別にしないでいい我慢をしていたり、またある時は、執拗に何かを避けたり、何らかの理由で「○○してはいけない」という絶対順守の掟を作り、それに従っていたりする。

いや、そもそも、「○○してはいけない」という意識さえなく、ただ、そうしていたりする。

確立された「○○してはいけない」という経路は、深い溝に水が流れるように、意識しなくても自動で流れるようになります。自動に、つまり無意識に、処理される。

何だか分からない、でも、そうしてしまう。そういうことになってくる。

考えることも意識することもなく、ただ当たり前にそうする。まるで反射です。あまりに当たり前すぎて、途中の意識的な処理が省かれてしまう。


「○○してはいけない」。そんな掟ができるということは、そこにはある程度の――あるいはそれ以上の――正当性があるのでしょう。

ただ、物事が多面的である以上、そこに欠点や邪さがあるにしても、それ以外のものも包含されていることになる。世の物事は、その割合は別にしても、よい面と悪い面の両方をあわせ持っているのです。だいたいが、よい面と悪い面というのは人間の――それも、その時代だったりその地域だったりの人間の、もっといえば個々人の――主観によるものなのですから、存在というものに対し、いいも悪いもないことになる。

この辺の詳細は後に語ることになると思いますが、ともかく、我々は生きている内に、“生きていない部分”というものを、無意識下に形成させるものなのです。無意識に押しやる何かを持つことになります。


北に向かえば、南からは離れます。明るいほうに近づけば、暗いほうから離れることになる。これと同じように、考えることを重んじれば、感情というものから離れたり、みんなと付き合うことを重んじれば、自分の内面を深めることから離れたり、何事においてもそういうことが生じる。

何かに向かえば、その反対からは離れるし、何かを手にしようとすれば、その反対のものを手放すことになったりと、そういうことが生きている間に起こるのです。

何かをするということは、その反対の別の何かしないことだったり、放置することだったりします。

で、そういうものが無意識の中で、生きているわけです。放置されているから死んでいるのかというと、そうではなくて、見えないだけで生きているのです。



我々はそれを見ることはないし、意識することもありません。が、それはあくまで「基本的に」というだけ。

上に書いたように、「トランス状態、夢、幻覚などにおいては『人格化』することがある」ということになる。


無意識の中に潜む何かが、例えば、夢の中で顕現するわけです。

我々は夢の中の登場人物を、夢の中で見える“その人”だと思ってしまいます。

例えば、近親者ならその近親者、有名人ならその有名人本人だと。

しかし、上の考えによるなら、それは近親者なり有名人なりの姿を借りているだけで、その本質は違うと。(細かいことをいうなら、その目に見えるものと同じ性質を有した、もっと根源的なもの、ということになります)

その中身なり本質は、当人の中にある“何か”、無意識の中に生きている“何か”だというのです。

この辺の細かいところも、後々書いてゆくつもりです。(「夢」とか「象徴」のところになるかな?)





A・スティーヴンズによれば、これらの考えが以下のものを生んだといいます。それは――


(1)’能動的想像法
(2)’個性化




能動的想像法については別に書くとして、ここでは個性化の概略について説明します。


上に書いたこととも通じますが、我々は生きている内に、ある種のパターンのようなものを持つようになります。

例えば、考えるタイプの人は、何かにつけて考える。感情に従う人は、何かにつけ感情に従う。人と共有しようとする人は多くを共有しようとするし、自分の中で深めるタイプの人は、それが何であれ、多くを自分の中で深めようとする。

正しさにこだわる人は多くのことをちゃんとしたいと思うし、安全にこだわる人は何かにつけ安全であろうとする。楽しくやりたい人は何でも楽しもうとするし、穏やかでありたい人はいつも穏やかでありたいと願います。

(「いつも」といっても正確にいつもではありませんが、概ねそうだったりする。大まかなパターンは有していたりする)


このように我々は何かしらの性格を持ち、それに沿って生きる。

ということは、その性格に沿った部分をより多く生きる。それを強化し、成長させる。

いつも使う部分というのができて、それを好んで使用するようになる。


実はこれ、歪(いびつ)なことでもあるんですね。

例えるなら、右手ばかり使う人は、右手ばかり発達して、左手は未発達になります。

実際の我々は何やかんやいいながら右手も左手もそれなりに使いますが、性格的なものにおいては、時に、一方をすごく重んじて、もう一方はめったに使わなかったりする。

この辺も「タイプ論」のところで説明しますが、人間のタイプ(態度や機能)はペアをなしており、しかも相反する性質だったりする。だから、一方に偏れば、もう一方は手つかずになるのです。相反することを同時には行なえないから。

外向的な生き方と内向的な生き方を両方同時にするのは難しいでしょ? 他にも、自分のことを考えようというのと、他人のことを考えようというのも、同時には出来ない(まったくできないわけでもないでしょうけども)。あっちを見たらこっちには背を向けることになるし、こっちに一生懸命になったらあっちはなおざりになってしまう。

その結果、例えるならまるで、右手だけ巨大化した人のような、目だけが発達したような、耳だけが発達したような、そんな歪さを、我々は持つことになるのです。

ま、あくまで例えですが。


それを補うのが、全体性の獲得です。

何かひとつが突出するのではなく、もっと全体的に身につけ、まるで球のような存在になる。

どこかが突出して尖っているような存在ではなく、それなりにまんべんなく持っている、そんな存在になる。

今まで見てこなかったものにも目を向け、あるいは、考え、感じ、受け取り、今まで生きてこなかった部分を生きる。



個性化とはつまり、人格発達の最終的到達点は全体性、つまり個人的状況が許すかぎり完璧な人間になることである。




ケッタイな例え方をするなら、右手ばかり使って、それにより右手だけが発達していた人が、左手も使うようになり、あるいは、足も使うようにもなり、そんな風にやがて全体をある程度発達させ、できうる限り完璧な人になってゆく。そういうイメージでしょうか。


そういうことと共に、もっと単純な理(ことわり)もありますよね。

身体の一方ばかり使っていると、やがて調子が悪くなる。姿勢が一方向にばかり傾くと、これまたおかしくなってくる。身体のどこかをあまりに使わないと、それはそれでバランスを崩したりする。

人間総体、心と身体をあわせた全部のことを考えても、こういうことが言えるわけです。

人間の中にある補償作用と共に、実際問題不具合が出るという現実もあると。



だから、個性化という意味でも、全体性を獲得しなければならないし、もっと個体維持的な意味でも、バランスを回復させねばならない。広い意味で死なないように、どこかでやり直すことは必要なわけです。



ということを踏まえつつ、次回に続きます…





能動的想像法―内なる魂との対話
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ユングと心理療法―心理療法の本〈上〉 (講談社プラスアルファ文庫)
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ユングの生涯や彼の体験した「創造の病」、「能動的想像法」の概略や「錬金術」については、順番を前後して、後で触れようかと思います。


今回は、“元型”と“集合的無意識”についてです。



元型は「われわれすべてに共通する心の構造」であり、そのすべてが合わさって「古代からの人類の遺産」を構成している。しかるべき機会には元型は階級・宗教・人種・地理的位置・歴史的時代にかかわりなく、人間のうちに似たような思考・イメージ、神話素、感情、観念を生じさせる。ある個人の元型的蓄えの全体が集合的無意識を構成し、その権威と権力は、人格全体を統合している中核に帰属する。その中核をユングは<自己>と呼んだ。




ユングは、人間には普遍的な意識構造があると考えました。

(普遍的とは、「すべてのものに共通している」といった意味です)

人間には各個人の経験によって形成される“個人的無意識”がありますが、それと共に、もともと備わっている無意識の層がある。先天的に有する無意識がある。そう考えたのです。

大人と子供の区別なく、あるいは時代や地域差の区別もなく、すべての人間が持っている無意識があると、ユングは考えました。

それが“集合的無意識”。

そして、その集合的無意識を構成するのが“元型”ということになります。



「元型は『われわれすべてに共通する心の構造』であり、そのすべてが合わさって『古代からの人類の遺産』を構成している」

「ある個人の元型的蓄えの全体が集合的無意識を構成し、その権威と権力は、人格全体を統合している中核に帰属する」



壮大な話になりますが、宇宙を巨大な樹だと考えた時、我々個人の持つ意識は、枝の先ということになります。枝分かれした一つひとつの先っぽ。それだけを見ると、個別の存在、個人に見える。同じ種でありながら、個体差をもつ存在。

しかし、我々は同時に、見えない領域――すなわち無意識の深い層――ではつながっている。枝が元を辿っていくと幹につながるように、枝の一つひとつは実はひとつの大きな樹の一部なのです。


ただし、この世に生きる我々は、枝の先っぽしか見ることができません。いや、実は、自分自身という枝は見えず、この目で見るのは、他者という他の枝。我々が見るのは実は、鏡や他者に映った自分であり、投影なしに自分自身、自分そのものを見ることができない構造になっているようです。

そういうわけで、枝の先の自分さえ投影なしに見ることのできない我々人間は、枝の奥、幹や樹の全体像など見ることはできません。根元も見えない。


見ることはできない。けれど、確かにつながっている。影響も受ける。

集合的無意識や元型というのは、そういうものなのです。



元型というのは、字の通り、「型」です。型というぐらいだから、それそのものは見えません。だいたいが、見えない内側の、ずっと奥にあります。

元型はある意味では、「素数」に似ているかもしれません。素数とは、1 と自分自身以外には約数をもたない正の整数(大辞林より)。もう、1 とその数以外のどんな自然数でも割り切れない。

元型はいわば、それ以上割り切れないような、人間の持つ構造の核なのかもしれません。それをいくら分析しても、それ以上は簡単にならない成分。(要素)


元型には、影やアニマ・アニムス、太母や老賢者、自己などがあります。


例えば、「母」で表現されるものは、この世にたくさんありますよね。

実際の母から、母なる大地、母なる海、命の母A、母屋とか母国なんて言い方もします。

このように、物事を生み出す存在や、生み育てる存在を、母という存在と絡めて表現する。

それら全部の根源となるものが、元型として存在することになります。

それらのすべて、いいも悪いも、何やかんやすべて含めた根源、それでいて、もうそれ以上割り切れない元になるもの、それが“太母”という元型。

全部の性質を包含しながら、それでいて、たった一つの存在。(それに関係するものなら)何にでもなれる、元になる要素。



何にでもなれるということは、どんな現れ方をするか分からないということでもあります。

「母なるもの」という元型があるとすると、それは包み込むようなやさしさを持って顕現するかも分からないし、逆に、すべてを呑み込む怖い存在として顕現する可能性だってある。

我々の目に留まる静止画のようなポイントではいろんなカタチをとるし、すごくよいと思うものもあれば、すごく怖いと思うものもありますが、それは正反対なようで、実はひとつの根源から来ていたりするのです。

多面的な性質のどの部分が顕現するかによって、枝の先である我々の意識が捉える印象は、すごく違ってきます。

また、多面的だから、人間はそれを同じものだと認識し難い。


しかし、この性質について、A・スティーヴンズは、面白い説明をしてくれています。



元型はある物の一般的特徴を具現化しているという意味では集合的であるが、同時にその個別の発現の中にもやどっている。例えば人間の指紋はその形状からすぐに人間の指紋だと分かるが、同時に、一人ひとりの指紋はすべて形が違う。それと同じように元型は普遍的なものと個別的なもの、一般的なものと独特のものを併せ持っている。つまり、人類全体に共通でありながら、一人ひとりの人間に、その個人特有の形であらわれるのである。

(原文は、太字部分が傍点)




例えば、目の前に何かが現れるには、それに足るだけの環境や要素が必要になります。

影が現れるには、光源も必要だし、映す先も必要です。真っ暗な中では何も映らないし、例え光源があっても、映す先や映る元がないと、映りようがない。

だから、枝の先がどんな素養を持っているかとか、他の枝とどんな関係にあるかとか、どんな布置に置かれているのかとか、そういうことでも、どんなカタチで元型が生じてくるかは、千差万別なんでしょう。

それは同じ根源を有している、けれど、表に現れるカタチは同じとは限らない。そういうものなんです。

円錐は、光を当てる角度によって、投影される像は変わってきます。三角にもなれば、円にもなる。シルエット・クイズみたいなのがありますが、どの方向から見るかとか、どこから光を当てて影を見るかとか、そういうので、目に見える像というのは変わるのです。



我々人間は自分自身を見ることができない。また、ずっと奥にある自分自身の根っこも、見ることができない。

ただ、それは、他者との関係の中で活性化され、何らかの像を顕現させる。

それらはあらゆる差を越えて、繰り返し現れる。

そんな目には見えない、けれど表に(像が)現れる、そんな型に、ユングは注目しました。




次回も、もう少し、元型と集合的無意識について…





人間と象徴 上巻―無意識の世界
人間と象徴 上巻―無意識の世界





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“元型”と“集合的無意識”について、もう少し――


いきなり話が横道にそれますが、人間が物事を修得するというのは、経路を確立することに似ています。

練習、反復することにより、それをするのによい経路を見出し、さらに固定化する。

例えば、野球のノックを受けながら、どうするのがいいのか、体で学ぶ。腰の位置はどうか、手はどうするか、タイミングは、次の動作は、などなど、体全体、脳をも含めて、修得して行く。

それを繰り返すことで、経路は確立されてきて、だんだんと自然と体が動くようになってくる。



こういうのはテレビ・ゲームでも同じで、何度もやる内に、効率のいい方法を覚え、そのうちに身についてくる。

一度身につくと、自然と動くようになり、ミスが少なくなります。

反応もスムーズになり、一瞬に対して反応するというよりは、一連の動作として動くようになる。



物事を繰り返すうちに、一番効率のいい経路を見つけ、それを確立し、その動作に入ると同時に、まるで流れるように、終点にまで至る。そんなことが起こる。

一度覚え、繰り返し使ったものは、経路が確立され、次からはスムーズに使えるようになる。

パソコンのキータッチだってそうで、はじめはゆっくりだったものが、だんだんと慣れてきて、そのうち、ほとんど意識しなくても、スムーズに打ち込むことができる。

(すべてにおいて、ある程度は、ということになりそうですが)



イメージするなら、繰り返し使うことで溝を掘ることになり、そこに経路のようなものが確立されて、水さえ流せば、ほぼ自動に終点まで流れるようになる。

はじめはゆっくり導いてやらねばならなかったのが、経路が確立されると、そんなには意識しなくてもよくなる。

自然と、スムーズに、運べるようになる。

これには利点があって、脳や意識に容量がある以上、その動作に意識を割くと、他に使えなくなる。が、経路が確立されて半自動のような状態になると、他に意識が使える。あるいは、簡略化されるので、助かる。

ただ、半自動の怖さというものがあって、こういうのは無意識の内に決め付けてしまうとか、そういうマイナス・ポイントもあります。

意識しないので助かるけど、意識しないことで危なくなることもある。





また話が変わります。

我々は共通のイメージを持ちます。

例えば、“雷(カミナリ)”。

雷に対し我々は、恐怖なり、畏怖の念なりを、持ったりするでしょ? ゴロゴロ鳴っただけで怖いし、稲光を見て身がすくんだりする。近くに落雷なんかあったら、もう…。


でも、なぜ、怖いのでしょう?


雷の実害にあった人は、そんなに多くないのではないでしょうか? いないわけではないでしょうけれど、誰もが体験しているわけではない。

でも、怖いですよね。ものすごく、腹の底から怖い。

落雷によって生じる被害を想像できるから?

確かに、想像できるかもしれないけど、いちいち想像して怖がっているのも、ちと違う感じがします。

それよりはむしろ、「雷は恐ろしい」というのが、人間に深く基礎付いているようにさえ感じます。

はじめから、「雷は恐ろしい」というのが、備わっている。まるで、強烈な経験をしたかのように。



“経験”という意味では、雷に対し、個人的に怖い経験をした人は、そう多くなさそう。だから、「雷は怖い」という強烈な感覚が、個人的な経験から来ているわけでもなさそうです。(もちろん、経験した人はまた別ですけど)

というよりは、普遍的にそういう感覚を持っている。まるでそういう強烈な経験を過去にしたかのような、そんな感覚を、なぜかほとんどの人が持っている。

単に大きい音にはビックリするのではないか? という意見もあるかもしれませんが、何というか、そういうものを越えて、腹の底から怖くありませんか? もう、何や知らんけど、ものすごく怖い。





このように、我々には、生まれつき備わっていると思える、そんなイメージがあるようです。個人的な経験ではない共通のイメージを、生得的に有している。

例えば、両親、妻、子供、誕生、死、これらを――実際とはまた別に――イメージとして有している。

実際の両親、実際の妻、実際の子供、実際の誕生、実際の死、そういう個人的な経験に基づくイメージや記憶もあるでしょう。だが、それとは別に、両親というもの、妻というもの、子供というもの、誕生というもの、死というもの、そういった、一般的なイメージも有しているはず。

互いがわりと似通っていたり、あるいは、全然違っていたり。そういうことがありながら、実際というものと、もっと広いイメージと、両方を持つ。

(もう少し分けると、個人的なイメージと普遍的なイメージの間に、文化的なイメージもありそうですが、ここでは触れません)


前者は、実際の体験を元にしているだけあって、意識的です。一方、後者は、実際とは別であり、そのイメージははっきりしない。おぼろげで、無意識。カタチがあるようで、カタチがない。

前者は個人の記憶であり、後者はもっと広い集合的・普遍的な記憶。


このことについて、A・スティーヴンズは以下のように書いています――


それらのイメージは経験的事実と遭遇することによってはじめて、確固たるものとなり、影響力をもつようになり、ついには意識的なものとなる。経験的事実は無意識的素質に接触し、それを活性化するのである。

これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない。




例えば、雷は、それにより被害を受けた経験があろうがなかろうが、誰にも怖い。思わず身を縮めてしまうようになっている。

現実世界に具現化されている何らかの「それ」に触れる時、目の前のそれと共に、無意識にある要素が活性化され、より心に訴えるものが出てくる。

雷鳴を聞くとき、目の前の雷と共に、腹の底にある何かが共鳴し、ものすごく怖くなる。



「これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない」


例えば、死に際し、個人の経験がひとつに集積されるとしましょう。

人は生まれ、やがて死ぬ。その間に、いろんな経験をする。それが集められたら、どうでしょう?

恐らく、混沌としたものになる。何が何だか分からない、ごった煮の状態。(あるいは、原始の地球のよう?)

が、それらは基本的に似通った、幾つかの方向性なり何なりを持つと仮定できる。どろどろの中の部分部分が、芯のようなものを持つ。

いろんな国、いろんな地域、いろんな時代、そこに生きた、いろんな人たち。一見バラバラに見えるその人たちの経験も、その中で、共通の傾向を持つ。

地域が違おうと、文化が違おうと、人種が違おうと、同じようなものはある。

仔細は違う、でも、概ねは同じだったりする。そういう、根源を同じくしたようなものが存在する。

それが“元型”です。

すべての人間の経験を集めた、広く濃厚なスープのようなものが、ある意味では、“普遍的無意識・集合的無意識”。そして、その中にある、幾つかの根源的な傾向が、元型。

仔細は違っても、人間は、根源的に共通した父なるもの、母なるもの、影なるもの、そういったものを経験するし、また、それは集められて受け継がれる。



例えば、ある種の鳥にとって危険な存在があったとしましょう。そんなものに遭遇したら、殺されたり、たいへんなことになる。

それが極々個体的な経験であれば問題ありません。たまたまその個体がそうなった、というだけです。

しかし、種として問題になるほど多くの、そして大きな、経験であったとするなら、それは彼らの経験の集合体の中で、確固とした芯を作るでしょう。

○○は危ない、○○に遭遇すると命を失う、そういった数多くの、そして強く深い経験が、確立してくるのです。

それはやがて、これから生まれるその種の鳥たちに還元され、その鳥は個体としての経験がなくても、天敵のような存在を目にするや、一目散に逃げ出すようになる。

以前怖い目にあったからとか、仲間たちがどうにかされたからとか、そんなことは関係無しに、生まれながらに備わった性質として、「それ」を見たら逃げ出すのです。



一番最初に、経路の話をしましたが、人生の中で個人的な経験として確立させる経路もあれば、このように、生まれる前から備わっている経路もあると、そう仮定できます。

A→X、B→Y、雷と遭遇した時に内から出てくる何ともいえない感覚、海を眺めている時に生じる個人的な経験を超えた不思議な感覚、そういうものがあるんですね。


「これらのイメージは、ある意味で、祖先の経験すべての集積であるが、経験そのものではない」

そして、こう言うように、これはもはや経験ではなく、確立された経路のようなものなのでしょう。



これについて、ユングは以下のように述べています――


ユングによれば元型は「遺伝的に継承された観念」ではなく、「継承された機能様式であって、それはちょうどヒナが卵からかえるような、鳥が巣を作るような、ある種のスズメバチが毛虫の運動神経節を刺すような、あるいはウナギがバーミューダ諸島への行き方を見出すような、生得的なやり方に相当する。いいかえれば、それは『行動パターン』である。元型のこの側面、すなわち純粋に生物学的な側面こそが、科学的心理学の本来の課題である」




我々の中には、人類の経験と共に確立された共通の経路のようなものがある。

それは無意識だけど、「それ」につながる目の前の「それ’」に出会うとき、知らず知らずの内に、影響される。

個人の歴史を越えた、人類の歴史。その過程で刻まれた、深い溝。その溝に水が注がれるとき、ある程度決まった流れ方をする。



目の前にある実際のものを「それ’」、無意識の中にあるもっと根源的なものを「それ」とする時、「それ’」は「それ」の持つ多面的な要素の、ひとつのカタチでもある。

例えば、実際の「父性の体現者」は、根源的な「父なるもの」の内、幾つかの要素を体現する。まったく違うものなら両者は共鳴しないが、深い層で関わり合いを持つので、共鳴する。

ただし、「父性の体現者」=「父なるもの」ということではない。むしろ、「父性の体現者」が「父なるもの」の中に含まれる。

目の前の「父性の体現者」が、根源的な「父なるもの」の一部を体現しているに過ぎない。

一部としてはイコールだが、全部という意味では、イコールではない。はるかに広くはるかに深い「父なるもの」に対し、この世に具現化する「父性の体現者」は、あまりにも局所的なのです。

個人が宇宙樹の枝先であるように。



我々は、経験することにより、経路を確立する。

繰り返しやったことが身につくというのも、これに当たると思われる。

これは感情的なものにもいえ、何度も同じような(感情的な)経験をすると、そこに深い溝が掘られ、経路が確立される。

あるいは一度の経験でも、それが強烈なものであった場合、溝は深くなり、経路は確立されてしまう。


ただ、これらとは別に、生得的なものもありそう。

個人の経験を超えたもの。時代、文化、地域、それらを越えた、経験の集合体と、その中に見出すことのできる型。

それが、普遍的無意識・集合的無意識であり、元型である。

そう仮定できます…





自己実現の心理学―元型論入門
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心の核である<自己>に加えて、ユングは人間の心理的発達と社会的適応においてそれぞれ特別な役割をになう元型要素をいくつか仮定した。そのなかには、自我、ペルソナ、影、アニマ、アニムスなどがある。



我々は、それぞれの社会で生きています。

生きることは成長することであり、また、社会に適応するということも含まれるでしょう。そして、それらの諸段階において、元型的構造が関わっており、我々に影響を与えている。

といっても、元型そのものは見えませんから、それについては無意識です。明確に意識することは、あまりなさそう。

けれど、意識しないから“見えないそれ”が無いのかというと、そうもいえないわけで、例えば我々は、自律神経系の働きによって、生命を維持しています。

呼吸、消化、循環、体温の変化だって、無意識に、自動に調節されている。

呼吸なんかは意識的にすることも可能だし、体温も衣服や冷暖房機で調節することも(ある程度は)できますが、基本的には無意識的な働きに任せている。我々はそれをいちいち意識しませんが、こうしている間にも、体は働いており、そのおかげで私やあなたというひとりの人間が生かされている。

目に見えない働きによって、人間は維持されています。

それによって成長もするし、環境にも適応する。(その逆も然りですけど)

こういうことが、実は、元型にもいえるようです。





[自己]


ユングのいう「自己」は自我を超越しており、その種に古くから継承されてきた能力を生まれつきもっている。その最終目標は全体性、すなわち人間生活の青写真を完全に実現することである。個性化(自己実現)は<自己>の存在理由(レゾン・デートル)である。



いろんなところに書いていますが、人間は性格を持つ以上、歪(いびつ)になってきます。ある部分だけが、尖ってくる。

内向的な人はその方面が強化され尖るし、外向的な人はその方面に尖る。感情的な人はそちらに尖るし、思考的な人はそちらに尖る。しかも、その反対側ほど使わないので、痩せています。

使う方はいつも使うし、使わない方は殆ど使わない。片方は発達し、もう片方は未発達になる。

だから、生きていると、バランスが悪くなるのです。

これが肉体なら、分かりやすいですよね。こっちの腕だけ太いとか、片方の脹脛(ふくらはぎ)だけが発達しているとか、目に見えて分かる。

けれど、生き方や態度というのは、なかなか自分では見えないので、気づきにくい。

上でいう“全体性”とはこの逆で、全体的に足りている状態です。刺々しい尖った状態ではなく、いろんな方面が補われている、球のような状態。

各方面がほどよく発達していたり、確立されていたりという状態。



これもいろんなところで書いていますが、ひとつの方向に進むということは、何かからは離れることだったり、放置することだったりします。どんなにいいことでも、別の何かからは、離れることになってしまいます。

これは、社会に適応して生きるということに対してもそうで、その方向に進めば進むほど、何かを置き去りにしているものなのです。

確かに適当している。その影で…



これに対し、警告を鳴らしてくれるのが、自己になります。

“それはすごく足りている、でも、これは…”

“それに対してはすごくやった、でも、これに対しては…”

そういうことを、何らかのカタチで、知らせようとしてくれる。


こういうものに人格を投影すると、霊になったり、神になったりするのかもしれません。

(また、その捉え方を否定しません)

ただ、これは身体の機能にも似ており、周囲の温度が下がったら末梢血管を縮めて体温を維持するような、ある状況においては汗をかかせたり、鼓動を速くさせたりするような、そんな働きにも似ています。

環境が変わっても、秩序ある安定した状態を保とうとする働き。あるいは、環境に応じて、必要な状態を作り出そうとする働き。そんなものが、心理という意味でも、人間には備わっていると。

というか、体と心を分けるのではなく、人間総体として、そういう機能があるものと思われます。



また、“時間”というものに注目すれば、人間の体温が起きてから上昇し、寝る頃には下がるように、人生の前半においては自我を成長させ、やがて、人生の後半では自己にシフトして行くといった、そんな働きも、ひょっとしたらあるのかもしれません。





[自我]


自我というのは、私が私だと思うもの。他者や外界にあるものから区別して感じる、自分。

考える私(自分)、感じる私(自分)、行動する私(自分)。

5歳の頃も、18歳の今も 今現在も、私を私と感じられるもの。自己同一感を与えてくれるもの。



我々は自己を直接的に感じることはできませんが、自我を感じることはできる。というか、いろんなものを考え、感じるのが、自我ですよね。

自己には限界が無く、その深さ・広さゆえ、我々は意識できません。逆に、自我は有限であるが故に、意識できて、「わたしはわたし」と感じることができる。ある意味では、境界が、わたしはわたしだと、感じさせてくれる。

他のものから分けられているので、自分といえる。



ただ、アンソニー・スティーヴンズに言わせると、「自我は<自己>のいわば手先にすぎない」ということになる。


なぜなら、実際には我々の意識が意識それ自身を生み出すわけではない。それは底知れぬ深みから噴出してくる。それは幼児期に徐々に目覚め、一生を通じて毎朝、睡眠の深みの無意識的状態から目覚めるのである。それは無意識という原初の子宮から毎日生まれてくる子どものようなものである。




自我は「自我 - 自己 軸」と呼んでいるものによって<自己>とつながっている。人格が安定しているか否かは、この軸がしっかりしているかどうかによって決まる。



宇宙樹でいえば、自己は幹から根っこで、自我はほんの枝先。枝先は枝先だからこそ、個別の枝として認識される。

しかし、その枝先を支えるのは、樹全体であり、幹や根っこである。



これは人間においてもそうで、自我が司令塔であるにしても、肉体なしでは役割を果たせないし、意識していないところでは細胞なり、神経系なりが、意識を越えて働いている。

また、意識は自分がすべてを決めているつもりでも、その意識を動かすものがあることを、我々は知っています。全部を自分が決めていると思えるほど、現代人は幼くはないでしょう。(その詳細はよく分からないにしても)

感情にしても、それはどこか奥底から来るもので、意識が感情を発しているのではない。むしろ受け側。

お腹が空いたから何か食べる、という行為にしても、食べるという指令を出すのは意識かもしれませんが、それ以前の指令や信号というものもあるわけで、自我や意識が最上位と言えるかどうか。

我々は、意識してないところで、実は、動かされているようです。

ただ、無意識だったり、半無意識だったりするだけで。



人間は、何かをふたつ持つとき、葛藤状態に陥るなど、ややこしいことになりがちです。

しかし、この世に生まれた時点で、“自我”と“自己”という、重要なふたつを持っているのかもしれません。

同じであり同じでない、そんなふたつを持つ。


生まれてから、我々は自我を鍛えます。人生の諸段階で、いろんな(人生的な)仕事をこなし、それと同時に自我を成長させる。

ただ、その裏では自己が関わっており、その影響を受けている。

また、自我が成長することで、それに気づけるようにもなってくる。

(日本人が歴史の中で、やがて世界というものを知ったように)


一方では、自我を強くすることは、自我と自己とを切り離すことを意味します。自己というあやふやなものではなく、境界をはっきりさせた、「わたし」というものを確立させてゆく。無意識的に物事を行なうのではなく、ある程度意識して、行動する。

ただ、そのようにして鍛えられた自我は、それと同時に、自己を感じるだけの能力や資格を得ることになる。

ぼやっとしたままの自我なら気づかないものも、しっかりした自我なら気づき始める。


一方では、わたし(自我)は自己とは違うのだと、明確に区別しようとし、しかし同時に、わたし(自我)とは違った、ユングのいう人格No.2 のような存在に気づく。

このような難しさもあるのかもしれません。




こういうことを踏まえながら、次回は“ペルソナ”について…





自我と無意識 (レグルス文庫)
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[サイト内タグ]:  ユング  無意識  元型  自我  自己



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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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