ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
本日(2月23日)45歳の誕生日を迎えられる皇太子殿下が、先日、記者会見されたのですが、その中で、愛子さまの養育方針に触れられ、ドロシー・ロー・ノルトさんの「子ども」という詩についてコメントされていました。

この詩は、たいへん興味深いものでした。



(以下、転載)


批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる
笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる
皮肉にさらされた 子どもは 鈍い良心の もちぬしとなる

しかし、激励をうけた 子どもは 自信をおぼえる
寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる
賞賛をうけた 子どもは 評価することを おぼえる
フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる
友情を知る 子どもは 親切を おぼえる
安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる
可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる



(「あなた自身の社会-スウェーデンの中学教科書」(新評論刊)より抜粋)



この詩が世の中のすべてではないし、公式的に扱われるものでもないですが、
皇太子殿下が感銘を受けられたように、この詩を読んで、ぐっと胸にくるものがあった方も多いのではないでしょうか?
(私も、その一人です)


そこで、今度は、自分の切り口で、言葉を少し変えてみようと思いました。
(感銘を受けた言葉を、自分の言葉に置き換えたり、自分の人生に当てはめてみるのも、面白いものです)



批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる

【批判ばかりで育った子どもは、自分に向けられ続けた非難を誰かに向けることで、自分を守る(そうでもしないと、自分を守れない部分がある)】


殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる

【殴られて育った子どもは、自分に向けられた強者からの暴力を、弱き者に向けることで、自分を守る(そうでもしないと、自分を守れない部分がある)】


笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる

【笑いものにされた子どもは、口をつぐみ、心を閉ざすことで、自分を守る(そうでもしないと、自分を守れない部分がある)】


皮肉にさらされた 子どもは 鈍い良心の もちぬしとなる

【皮肉にさらされた子どもは、心を鈍くして、感覚を麻痺させ、自分を守る(そうでもしないと、自分を守れない部分がある)】


しかし、激励をうけた 子どもは 自信をおぼえる

【しかし、激励を受けた子どもは、それを心の栄養源とし、自信につなげる(また、自信は行動につながる。そして、行動によって得られた成果・激励は、更なる自信となる)】


寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる

【寛容に出会った子どもは、自分も他者を赦す(ゆるす)心を覚える】


賞賛をうけた 子どもは 評価することを おぼえる

【賞賛を受けた子どもは、その喜びを知り、それを周囲に還元する(褒める喜びも知る)】


フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる

【フェアプレーを経験した子どもは、その素晴らしさを体験し、そう振舞うことで、皆ともフェアプレーを共有する】


友情を知る 子どもは 親切を おぼえる

【友情を知る子どもは、そのつながりの真の価値を知る】


安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる

【安心を経験した子どもは、大いなる、そしてゆるぎない、人生の基盤を得る(常に守られているという絶対的な基盤、目に見えない強い味方を得る)】


可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる

【可愛がられ抱きしめられた子どもは、その愛を基盤に生きることができる。それを人生の頼りにし、自分の人生を歩くことができる】





子どもたちは、それが善いものであれ、悪いものであれ、自身の身に受けたものを、周りの者に還元するようです。
もちろん、すべてがその通りではないですが、その面をまったく否定することもできんでしょう。

人というものは、接し方によって、マイナスの連鎖も生めば、プラスの連鎖も生むようです。
そして、カウンセリングの一面は、そのマイナスの連鎖を打ち破り、プラスの連鎖に置き換える作業でもあるんでしょうね。



「三つ子の魂百まで」と言いますが、それまでに深い愛情を受けた人は、それを絶対的な安心の基盤とし、その後の人生を生きられる部分があるようです。

もちろん躾(しつけ)は大事なわけですが、それは自我が芽生えてからでいいわけで、せめて自我が芽生える前までは、これから世の中を生きていく為の基盤となる「安心」を与えるために、十分に愛し、接したほうがよさそうですね。


「三つ子の魂百まで」:「幼いころの性格は、年をとっても変わらないということ」
(決して、トン吉・チン平・カン太のことではない)



同じ言葉でも、人によって受け取るものは当たり前に違うわけですが、
感銘を受けた言葉を自分の言葉に置き換えると、また違った味わいが出てきたり、理解が深くなったり、面白い部分があるかもしれません。
(ただ、その作業に強い負担を感じるなら、今は止した方がいいかもしれません)





子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)


10代の子どもが育つ魔法の言葉 (PHP文庫)





【関連記事】
「生まれてきた価値、存在意義/(不安解消)」
「乳児期・幼児期/エリクソンのライフサイクル」

「やさしい虐待/クローズアップ現代」







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自分(私)を知るのは自分(私)なわけですが、
その一方で、人(他者)の目に映る自分(私)というものもあります。



私というものを認識するのはもちろん私自身なわけですが、
それだけでは足りない部分もあるのではないかと思うわけです。

・私が知る私、
・人の目に映る私、

―― その両方の姿を認識してこそ、
本来の自分の姿を認識できるのかもしれません。



人間の内面を考えた場合、
私の知る私(=自我)がある一方で、私の知らない私(=無意識や自己)もあります。
その私の知らない私は、知らず知らずのうちに態度や言動に表れ、自分よりは他人の方が知っている場合も多いようです。

一方で、人の目に映る私というものを考えた場合、
当然自分のすべてをさらけ出しているわけではありませんから、人の知っている私というものもあれば、人の知らない(ある意味、隠された)私もあります。

このように、
私の知っている私もあれば、私の知らない私もあって、
人の知っている私もあれば、人の知らない私もあります。

――って、なんか、ややこしいですね(笑



真の私というものを考えた場合、
やはり、「私の知る私」と「人の目に映る私」、この両方を知ることが必要かもしれません。

特に、社会という集団の中に生きる我々には、それを必要とする面が、ある程度、強いように思います。

私が私自身をある程度知っていないと、私というものを見失ってしまうし、
人の目に映る私というものもある程度知っていないと、人との関係を見失ってしまうかもしれません。

あるいは、自分には見えない自分の半身を見失ってしまうかもしれません。

だいたいが、背中がそうであるように、
我々は自分の裏側を見ることができませんからね。

自分の行いや行動を客観的に見ることは、カラダの構造上、難しいです。



「私の知る私」と「人の目に映る私」は当然異なる部分を含むわけですが、
これを同一化し、

・「私の知る私」を人も知っていなければならない
 (あるいは、知っていて当然)、とか、
・「私の知る私」と「人の目に映る私」は同じでなければならない、とか、
・「人の目に映る私」に「私の知る私」をあわせなければならない、とか、

―― そうなってくると無理が出てくるかもしれません。

実際、難しいですよ、
「私の知る私」は私しか知らない部分が多いわけだし、当然、人が知らない部分があるしょう。
(まあ、ある程度関係が深い人には、知っている部分は増えるかもしれませんが…)

一方、「人の目に映る私」は私というものの「表れ」であることは間違いないものの、そのすべてが「私の知る私」と一致するものではありません。私というものの内、表面に表れたものが映ったに過ぎません。
そして、「人の目に映った私」のすべてが、私に伝わるわけでもないし、時には間違って伝わる場合もあるでしょう。
(見るほうの勘違いだって、多々ありますし)


そういう行き違いがたくさんあるのだと思います。


「私の知る私」のすべてが人に伝わるわけではないし、「人の目に映る私」だって私の一部に過ぎません。

まあ、それでいいのではないでしょうか。

お互い、伝えたいことがあれば伝えればいいわけだし、
また、伝えるべきでないと思えば、隠すのもいいでしょう。
(更に、間違った私が伝わっていたとしたら、それを修正することも可能だと思います)

そんなバランスを考えるのも一興かもしれません。



「私の知る私」のみに支配された場合、周囲の不理解に悩んだり、周囲との摩擦に悩むかもしれません。(どうして分かってくれないの?)
「人の目に映る私」のみに支配された場合、本当の自分を見失ったり、生きた心地がしないかもしれません。(私って何? 私は何をしたいの?)

でも、どちらか片方ではなく、両方を含めた私というもの総体を大切にできた時、新たなものが見えてくるかもしれませんね。
(全体性を少しでも回復していけるのかもしれません)

両方大事に――なんて無理かもしれませんが、
両方をほどほどに――となると、可能かもしれません。

また、今まで蔑ろにしてきたから、
せめて今はそれを大事に――そういう期間があってもいいでしょう。


「私の知る私」にこだわり過ぎる時、
「人の目に映る私」にこだわり過ぎる時、

そんな時、もうひとつの私というものにも目を向けると、新たな発見があるかもしれませんね。

あるいは、

「私の知る私」を見失っている時、
「人の目に映る私」を見失っている時、

そんな時は、それらとしっかり向き合うことも必要かもしれません。

それは勇気の要ることですが、
余裕が出てきた時には、
それらに橋渡しをつけるのも、大事な作業かもしれませんね。

けっこう大事なシゴトかもしれません。




人の目に映る私:
それは私の知らない私を含む。
ただし、それが私のすべてではない。
ただ、時に、私の見落としているものを教えてくれる。

(まあ、勘違いされることもあるのだけども…)





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人間が肉体を持って生まれてくる以上、肉体を持つことには(大きな)意味があると、私は思うわけですが、
そのひとつが、「イメージを具現化すること」だと思います。



人間は無意識内に、普遍的なもの、個人的なもの、あわせて多くのイメージを持ちます。
「影」「アニマ(男性の中の女性的イメージ)」「アニムス(女性の中の男性的イメージ)」「母なるもの」「父なるもの」
…それらは普遍的な意味も持ちますし、個人の経験に彩られた個人的な意味も持ちます。

それらの究極のイメージが、「自己実現」とか「個性化」の目指すイメージでしょうか。

もっとも、「自己実現」や「個性化」は、「影」や「ペルソナ」、「アニマ」「アニムス」との対話・対決によって成されると思いますから、ひとつのイメージに限定することはできないかもしれませんが、
あえてそれらのすべてを包含するようなイメージがあるとするなら、
人は、自分自身の究極のかたちである、そのイメージに向かって生きていることになります。



そのイメージを「究極の人間」のイメージとするならば、
人間は各成長段階で、そのイメージに近づけるように、自分の足りないものを補うことになります。

例えば、自分の価値観がある程度できてきたら、「自分が認めたくないもの=影」と対話・対決し、影の中からも良い面を見出し、それを取り入れ、自分に足りなかったものを補っていきます。

また、男性的自我を持つ者は、無意識内の女性的イメージである「アニマ」と、
女性的自我を持つ者は、無意識内の男性的イメージである「アニムス」と、
対話・対決することで、自身に足りない面を取り入れ、「全体性」に近づいていきます。



このように、人生の各段階で、いろんなイメージとの対話・対決を通して、人間的に成長するわけですが、
実は、これら複数のイメージが存在するというよりは、
「究極の人間」という元型が、今無いものを補うために、その今は無い「対立する要素」の姿を借りて、具現化しているのかもしれません。
それが、ある時は「影」であり、ある時は「アニマ」「アニムス」なのではないでしょうか。

そういうものが、ずっとずっと奥の方に、あるような気がします。
(といっても、気がするだけです。確かめようもないし…)



そして、我々が肉体を持ってこの世に生まれてくる以上、
我々は、無意識の中に生まれ持っている「究極の人間」というイメージを、
この肉体を持って、この世界で具現化することが究極の使命なのかもしれません。

そして、人間が一人ひとり異なる以上、
たとえ「究極の人間」のイメージが、無意識の深遠では同じ「元型」だとしても、
それを捉える自我は一人ひとり違うわけだし、
更には、生まれた環境、文化、時代が違うので、
当然、この世に現れる、一人ひとりの「究極の人間」像も、違ってくるのではないでしょうか?



我々の究極の目標は、
この肉体、この自我、この自己、それらすべてを総動員して、
この世の中で、今この時代に、
自分だけの「究極の人間」像を具現化することなのかもしれません。



[サイト内タグ]:  肉体    アニマ  アニムス  全体性



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自分自身を鑑みても、

人間てポンコツだな~と思ったり、
人間てよくできてるな~と思ったり、

面白いな~、けったいだな~、
意味深いな~、しょうもないな~、

強いな~、弱いな~、
不思議だな~、合理的にできてるな~、

―― etc、etc、

「人間そのもの」のことなんて、よく分からないし、
すべてを理解できるわけがない、

そういう事を前提に、

(私自身という)人間の経験を通して、
人間というものを、少しずつでも、理解しているような気がする、

今日この頃…



(ほんの少しでも、ですね…)



[サイト内タグ]:  人間



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ある時は、何かとの関係を切らないと、飛び立てない、
ある時は、何かを嫌いにならないと、離れられない、



無意識は、時に、「切れ」、「嫌え」と言う、
(無意識だけに、それをコントロールすることはできない)



ある時は、関係を切らないと、進めない、
ある時は、嫌いにならないと、進めない、



そこには善悪では語れない、世の理(ことわり)がある、



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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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