ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
『臨床心理学の第一人者、元文化庁長官の河合隼雄さんが死去』
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070719i311.htm

>臨床心理学の第一人者で、元文化庁長官の河合隼雄(かわい・はやお)さんが
>19日、脳こうそくのため、奈良県天理市内の病院で死去した。79歳だった。



去年、倒れられてから気になっていたんですが…

うん、

うまく言葉が浮かびません。


ともかく、間違いなく、
私に大きな影響を与えてくれた、巨人の一人です。

同じ時代を生きることが出来たことを、感謝するばかりです。


心より、ご冥福をお祈りいたします。


[サイト内タグ]:  河合隼雄



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

今日はいつもより早く起きて、結構な時間、情報番組を見ていたのですが、河合隼雄さんが亡くなったことが報道されないことに、少なからず驚いています。

まあ、臨床心理学というのは特殊な分野かもしれませんが、元文化庁長官なわけだし、数多くの著書を残されており、売れ行きも好調で、(これは私の思い込みかもしれませんが)ひろく世に愛されている方だと思っていたので、まったくといっていいほどテレビで報道されないのは、私にとっては、奇異であり、驚きでした。

ここまで触れられないものか、と…

(個人的な感情が強すぎるのかな?)



一方、新聞の方では、それなりに紙面を割いて報道されているようです――


河合隼雄さん死去 「臨床心理学、世界に発信」 府内各界、功績たたえる』
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news002.htm
(子供たちの前で愉快に笑う、画像あり)


河合隼雄さん、日本文化に心血 あふれるユーモア、庶民派』
http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070720/bnk070720001.htm
(フルートの腕前を披露する、画像あり)


『河合元文化庁長官死去 「回復願っていたのに…」』
http://www.sankei.co.jp/chiho/nara/070720/nar070720000.htm


『元文化庁長官の河合隼雄さん死去』
http://www.asahi.com/obituaries/update/0719/TKY200707190396.html
(アップ写真あり)





まあ、河合隼雄さんのような方は、必要な人には必要だけども、万人にとって必要とされるというのではないのかもしれませんね…

まあ、そういう部分はあるかもしれない。

心理学自体が、そうですもんね…

(大仰な言い方をすると、「救い」というのは、「救い」を必要にする人にこそ、必要なんですもんね…)


でも、まあ、私にとっては、何人にも変えがたい、偉大な人であることには変わりないし、私の、この、貧相な背中を、強く押してくれた人だ。

間違いなく、私の人生を変えてくれた。

(ずっと、あのままだったらと思うと、正直、ぞっとする)

(つっても、まだ過程だけれども…)



河合先生の著書、そのすべてを私は読んでいません。

先生の本は、私にとって、舐め応え、噛み応えのある、価値あるアメのようなもんで、その時、その時で、口に入れれば、いくらでも味わえる。

だから一度読んだものを、定期的に何度も読み返したりしています。

それだけ深みがあり、奥行きがある。

だから、まだまだ読んでない本があるということは、それだけ楽しみがあるということでもあります。



そういうことも含めて、ともかく、「ありがとう」、それだけは伝えたい。



私の感じる、先生の人柄のようなものは、また日を改めて、書かせてもらおうと思います。




【関連】
『神戸新聞 震災を語る 文化庁長官・河合隼雄さん』
http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/kataru/2002/1106kawai.htm

>死者の記憶を受け継ぐことは、
>人生を深く、意味あるものにする。


【追加】
『河合隼雄氏死去・談話 』
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2007071900797
フルート奏者水越典子さん、哲学者の梅原猛さん、井戸敏三兵庫県知事の談話。


【更に追加】
『7月21日付 編集手帳』(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070720ig15.htm

>臨床心理学者の河合隼雄(はやお)さんは美しい花を見ると、
>ときに心のなかで花に語りかけたという。
>「あんた、花してはりますの? わて、河合してまんねん」




[サイト内タグ]:  河合隼雄



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

河合隼雄さんの印象は、と訊かれれば、私は、「ユーモアの人」と答えるだろう。

そして、「やわらかさ」。

(もちろん、お会いしたことはないですけども…)


【 注:そうそう、これから書くことは、あくまで私の印象であり、私見の色濃いものであることはいうまでもありません… 】





河合先生の書く本は、みな「やわらかく書かれている」と、私は思います。それは、「専門的なことを分かりやすく」という意味でもあり、「深刻なことを、やわらかく」という意味でもあります。

先生の扱う分野は、心であり、人生です。生き方といってもいい。

そういう目に(直接)見えないものを、専門用語の羅列で説明するのではなく、体験を踏まえ、分かりやすいように書いてくれている。

おそらく、先生は「人間」というものを第一に考える方なので、「如何に正しく書くか」というよりは、「如何に相手に伝わるか」、「如何に相手が理解してくれるか」、そういうところに力点が置かれていたのでしょう。

(もちろん、エキスパートなのですから、正確さにも十分注意を払っておられるんですけどね…)

先生の目の前には、いつも、「人間」というものがあったんでしょうね。それを抜きにはできなかったんでしょう…


また、そういうものを扱う以上、どうしても深刻な問題に触れることになると思うのですが、深刻な問題に触れながら、それでも読めるというのは、そこに、先生の配慮があり、やわらかさがあるからだと思います。

そうでないと、心や人生に対して深いことが書いてあるものに、そうそう長く接することができるはずもないと思います。

痛々しくて、読み進められないですよ。

(このサイトがそうであるように…ホンマ、スンマセン)


そういうわけで、先生の本には、いたるところに「やわからさ」が敷かれていて、それがいい具合に、緩衝材になっているのだと思います。

そうでないと、重たい問題に、長く接することなんてできませんもの。



また、「やわらかさ」というものは、「ユーモア」にもつながるんでしょう。

専門書のようなものは別にして、エッセイとか、講演したものを文章に起こしたものとか、そういうものには、必ずといっていいほど、ユーモアが含まれている。

きっと、そこにも、先生の「人間というものを大事にする」姿勢があって、

如何に伝えるかとか、
如何に聞いてもらうかとか、
如何に分かってもらうかとか、

何より、如何に愉しんでもらうか、
(そして、人間を豊かにするものは何か)

そういう姿勢が、出ているのだと思います。

そういう、先生の人間性が、表に現れているんでしょう。





笑いの力
笑いの力





「その二」に続く…)



「ユーモア」といえば、河合先生は、その著書の中で、

『ゆとりはユーモアを生むし、ユーモアがゆとりを与えてくれる』

と言っておられます。

人生の厳しい場面に、度々接せられる先生のこと、きっと、「ゆとり」の大切さは誰よりも身に沁みていて、それだけに、「ユーモア」の大切さというものを、誰よりも強く感じていたのではないかと思います。

先生は紛れもないエキスパートで、エキスパート中のエキスパートだからこそ、専門性を取り除いた時に残る、「人柄」とか「人間性」というものを、非常に大事にしていたのではないでしょうか。

そして、そいつは、十分すぎるほどに、あふれ出ていたのだと思う。

自然に、ね。




【追記】

「やわらかさ」というのは、「丸さ」でもあるでしょう。

私のような若僧は、未だ「とげとげしい」部分を残しているんですが、自分の人生と勝負し、いろんなものを補った人というのは、「全体性」という言葉が示すように、しだいに、「円」というか、「球」に近くなっていくのだと思います。

それは、弱さとやわらかさを勘違いした類のものではなく、

しっかりとした芯を持ち、また、自分の特性という、突出したものを持ちながら、それでいて、その突出部を補うだけの、「それだけじゃないもの」を獲得した、そういうものだと思う。


それはきっと、「円」であり、「球」なんだ。




[サイト内タグ]:  河合隼雄



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

【ここからまた、私見の度合いが加速することをお赦し願いたい…】


河合隼雄先生について語られる際、時に、その姿勢が問われることがあります。

例えば、真にユング心理学と呼べるのか? とか、真に臨床心理学と呼べるのか? みたいな…





それは確かにそうかもしれないけれど、なんというか、問題とすべき点がズレているような気もします。

例えば、ユング心理学のあり方にしても、河合先生が実際に使っていたのは、「河合隼雄流 ユング心理学」ということになるんでしょう。

というか、そうでないと困る。

(困らないけど、実用的にはなり得ない)


今、この時代に生きる、目の前の人間に、ユング心理学を使うとなると(いや、「使う」という表現すら、おかしいかもしれないですが…)、ユングの生きた時代に、ユングによって確立された、しかも西洋文化の中で、経験的に構築された、そんなユングの心理学を、現代の、しかも日本という国で、そのまま使えるはずがないですもんね。

しかも、前述の通り、先生は、「人間」というものを非常に大事にされている。(と私は思う)

したがって、目の前の人間の変容に対し、如何にユング心理学が効果的に働くかが問題なのであって、如何に正しくユング心理学を患者に適用するかというのは、二の次なんではないでしょうか?

(突き詰めれば、ユング心理学云々というのでさえないかもしれません…)

上記のような言い方は、いささか乱暴であるような気もするし、河合先生がユング心理学の在り方というものをぞんざいに扱っていたとも思えないけれども、なんというか、人が変わろうとする時、如何に触媒として深く関われるのかが目的になるのだから、基本として収めた数々の方法は――それから離れる離れないということは――そんなに問題とならなくなるんではないだろうか?

(いや、基本は絶対、ぜぇ~ったい、必要不可欠なんですが、基本に囚われるあまり、目の前の人間のことが見えなくなったんでは、本末転倒ということになるんでしょう。先生の立ち位置、生き方としては、ね)



また、基本を習得した後に、掟破りの必要が生じてくるのは、どんな道であれ、その通りなんでしょう。

それは簡単に割り切れるものではないだろうし、どんな選択をするにしても、当然、葛藤みたいなものは生じるだろうし、そんな中で、自分なりの「本分」や「立ち位置」というものを確認したりしながら、自分なりの「やりよう」ってもんが確立されるんじゃないですかね。

そして、それが「生き方」にもつながってくるんでしょう。



河合先生自身を「薬」に例えるなら(「薬」といっても、患者さんの自己治癒力に頼った、触媒のような薬になると思いますが…)、「薬」として正しいかどうかは、まあ、基本として大事で、また譲れないものなのだけれども、そんなこといたって、効かなければしょうがないんであって、「如何に効果的に働くか」、それが第一位になったとしても、不思議じゃない。

人によっては、薬学の歴史において構築された処方を頑固に守ろうとするだろうし、また、基本として、それは守られるべきなのだけれども(いや、ホント、頑なに守ってもらわなければ困るんだけれども)、風邪といたって、いろんな風邪があり、肝臓病といたって、いろんな肝臓病があるわけだから、「漢方」の「証」のように、その人にあった薬が必要なわけで、その薬にあたる、河合先生が、頑固にひとつのあり方であることはできないのではないかと思うわけです。

(漢方だと、同じ症状に対する時でも、実証なら実証の、虚証なら虚証の、という風に、いろんな漢方薬があるわけでしょう)



河合先生は、その著書の中で、

『心理療法の特徴を一言で言えと問われたら、それは「人間関係を土台として行なわれる」仕事であると、私なら答えるであろう』

とおっしゃっています。

実際、人の変容の過程は、因果関係を軸に論理立てて説明するには限界があるだろうし、いや、ひとつの事例をそれに当てはめるのは(ある程度)可能かもしれないんですが、今度は、それを他の事例に当てはめようとすると、かえって悪く働く場合もあるだろうし、なんというか、そういうのは、あやふやで、説明のつかないものであって、先生のおっしゃるとおり、「論文」みたいなのにはできないんでしょう。

先生のやり方は、「説明放棄」「操作放棄」のやり方であって、むしろ、「あやふやなもの」に賭ける、そんな、やり方なんでしょうね。

先生が「待つ」のを大事にされるのも、そのためで、患者さんが、本人もいろんなことが(自我的には)分かっていながら、それでもにっちもさっちもいかないような時、あるいは、自我の限界を超えて、もう何が何だか分からないような時、そんな風に、自我の主体性や総合性が脅かされる状態にある時に
(そういう状態だからこそ)、意識よりずっと奥の方にある、自我には、はっきり捉えられない、そんな「あやふやなもの」の力を借りようとするわけで(だからこそ、盲点が見えてくる)、この辺が誤解を受ける原因にもなるし、また、「物語」や「ファンタジー」を大切にする理由にもなってくるんでしょうね。



いつものように、話があっちこっちいった感がありますが、河合隼雄という人は、私が思うに、ひとりの人間というものを大事にする人であり、故に、その時その時で、(その人にとって)一番よいことをしよう、という人なんでしょう。

(「一番よいこと」といっても、総合的なものであって、「その場限りのいいこと」ではないので、難しいですけどね…)

あまりにありきたりすぎて、軽い感じがするかもしれませんが、「一期一会」ってやつです。

だから、それを大事にすればするほど学問的な要素からは離れる部分はあるだろうし、学術的な論文を大事にする立場からすれば、文句も言いたくなるんでしょう。

無論、先生がそういう学術的な道を軽んじているということではないですが、先生にとっては、目の前の人が歩もうとしている道こそが、第一位に大切なのであって、「ちゃんと知っていて外れる」分には、そうそう問題なかったんでしょうね。

本人的には。


こういうところにも、河合先生の、「人間賛歌」の姿勢が窺えるのだと、私は思います。





心理療法個人授業 (新潮文庫)
心理療法個人授業 (新潮文庫)





「その三」に続く…)




[サイト内タグ]:  河合隼雄



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

河合隼雄先生は、我々に多くのものを与えてくださったけれど、その半面、伝えたかったことの内、一体どのくらい伝えることが出来たのだろう? そう思ってしまう面があります。

河合先生の著書を読んでいると、「果たして、どこまで伝わるだろうか?」、そのような畏怖があったということが、それとなく書かれているように思うんですね。

それは過去形で書かれていたりするけど、生涯通して持ち続けた思いなのかもしれません。だいぶ言えるようになった、でも、はたしてどのくらい言えたのか。言えないまま抱えていたものは、どのくらいあったのか。

なにせ、人の「心」に触れる専門家だったわけだし、それが深まるにつれて、「たましい」としか呼べないようなものまで扱うことになるのだから、そういう恐れがあって当たり前だし、無いと困るでしょう。

少し前までは、「たましい」なんて口に出せなかった時代だったようだし、今でもその部分は残っているだろうし。



先生はある著書の中で、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引き合いに出し、こんなことを述べられています――


内界の素晴らしい秘密を見たモモに対して、マイスター・ホラは、それを他人に話すためには、「お前のなかで言葉が熟さないといけない」と忠告する。われわれは素晴らしいものや、珍しいものを見ると、すぐ誰かに話したくなる。しかし、内界へ旅するものはその危険性を十分に知っていなければならない。




また実際、物語の中では、


未熟な言葉で秘密を語ろうとした人の運命は、ベッポの体験に示されています。




ということになってしまうんですね。

先生の立場なら、「胡散臭いもの」という烙印を押されかねないのです。





と、そんなことを考えていると、ちょうど、NHKの『知るを楽しむ』で金田一秀穂さんが、「日本語のカタチとココロ」という題で話をされていた――

そこで言われていたのが、

「言葉にならないものは、世の中にいっぱいある」
「気持ちを言葉で表すのは難しい」
「感じを伝えるのは難しい」
「自分の言いたいことをちゃんと言えた! そういう言葉を見つけるのはとても難しい」


というようなこと。


河合先生の分野である、「心」とか「人間の内面」というもの、あるいは、もっと深い層にある、「普遍的な無意識」みたいなもの、そういうものはカタチがないだけに、伝えるのが難しいわけです。

「ハイ、これです」と見せるわけにもいきませんから。

それはまさしく、「気持ち」や「感じ」であり、「イメージ」だったりするんでしょう。

それだけに、しんどいものがあったでしょうね。

伝えたいけど伝えられないというしんどさは、我々も体験していることではないでしょうか。



で、こういうのは、ユングのいう「象徴」の考えにも似ていると思います。

本来カタチのない「気持ち」とか「感じ」というものを、我々人間は、自分の知っているものを使って、表そうとします。

しかも、出来るだけ「しっくりくるもの」で表現しようとするんですね。

「象徴」というのは、無意識の深いところにあるものが、「こちらの世界」、つまり、我々が生きている現実世界のものを使って、「もうこれしかない」といったピッタリしたものを使って表現されるものです。

(ざくっと言えば、ですけどね)



こういう人間が使うほうのやり方を――つまり、人間が気持ちとか感じを伝える方法を――「メタファー(暗喩)」として、金田一先生は紹介してくれています。

他のもので、あるものを見立てて、それによって、我々はいろんなものを理解し、言葉にし、伝えたり、共有したりするわけです。

例えば、「パンの耳」「台風の目」「(パソコンの)マウス」とか、言っちゃうわけですね。

しかし、ホントのことをいうと、「パンの耳」は「耳」ではないし、「台風の目」は「目」ではないし、「(パソコンの)マウス」は「ネズミ」ではないんですけども、そういう「しっくりくる」表現を使うことによって、理解しやすくなったり、伝えやすくなったりするんですね。

それで、みんな、共有しやすくなったりするんです。


心の中にみられる、ある共通の型(元型)にしても、「影」は「(地面にできたりする)影」ではないし、「太母(母なるもの)」は「(実際の)母」ではありません。

しかし、本来言葉で表せないものを、既知の言葉で表そうとする時、

(本当は、言葉云々も関係なくて、本来意識で捉えられないものを、意識で捉えようとする時)
(意識で捉えられるように、意識界のものを使って表現しようという時)

一番「しっくりくる」姿が、「影」であり「太母」である、というわけです。

これは夢に現れる象なんかにもいえることです。

(って、いきなり言われても、分かり難いですよね…ともかく)



人に何かを伝えたいというのは、非常に人間的な心の働きであると、金田一先生は言います。

これは人間相互の関係のことですが、おそらく、こういうことは、ひとりの人間の中にあるメカニズムのようなものにも、いえるのではないでしょうか。

我々の奥にある、無意識ってやつは、常に自我に対し、何かしらを伝えようとしてるんですね。

本来伝えられないものを、何とか、自我が理解できるように、自我が理解できるもののカタチを借りて、伝えようとしているんです。

こう考えると、「メカニズム」っていうくらいですから、そこに人格などあるはずもありませんが、自然というものがそうであるように、何か、人間的なものを感じずにはおれません。



そして、それでも伝えられないものがあると、金田一先生は言います。言葉では伝えられないものがある、と。

人間というのは、それでも何とか、必死に伝えようとするんですね。

そして、それは、「心」というものも同じで、我々の奥の方にある、姿見えない、「心」ってやつは、なかなか伝えられないもの、伝えよう伝えようと思いながら、それでも伝わらないもの、そういうものを、何とか必死に、我々(自我)に伝えようとしているというわけです。向こう側から。

(↑本来人格のないものに、あえて人格を持たせてますけどね)


「人間 対 人間」の関係にしろ、ひとりの人間の中にある、「自我 対 無意識」の関係にしろ、言葉(言葉で表せるもの)の向こうに、大事なものがあって、それでも必死に伝えようと、頑張ってたりするわけです。

(そう考えると、いじらしいじゃ~あ~りませんか)



我々は時に、「心に響く言葉」「胸打つ言葉」に出会うことがあります。

また、そういうのは理屈を越えていて、文章として成立しているかどうかとか、高尚かどうかとか、稚拙かどうかとか、つじつまが合うかどうかとか、そんなものは関係なくて、まるで内からあふれるものがペンに乗り移ったようになった時、言葉の向こうにあるものが、何かの拍子に現れた時、そういう時には、やはり、伝わるものがあるのだと思います。

(内から出るものが大きすぎて、やられちまってる時は、危ういですけどね…)

「想い」と「言葉」がシンクロした時、そういう、説明のつかないチカラ(あるいは、イノチ)が宿るのかもしれません。

そして、心の現象の場合、そういうものが、「共時性的現象」だとか、理屈を越えた、不思議で、それでいて胸打つ、そんな瞬間として、現れるのかもしれません。

(う~ん、こういうことを書くとまた、胡散臭がられるのかな…)
(まあ、こういう理屈を越えたものを、無理やり因果関係で説明しようとしたりしたら、そうなるのかもしれません…)





何だか、いつにも増して大脱線した感がありますが、え~っと、そうそう――

河合先生の傍には、きっと「怖れ」のようなものがあって、それは前述の通り、「どこまで理解されるか」「どこまで受け容れられるか」、そういうものがあったのだと思います。

で、それは単に伝え方の問題ではなくて、受け取る側の、容量の問題でもあります。

伝える方の、言葉が熟すと同時に、受け取る側も、ある程度、熟さないといけないということです。共有する場の成熟というのがあるのでしょう。



前時代、我々受け取る側には何の準備もありませんでした。下地ってやつが、なかったわけです。

だから、河合先生は、その役割を買って出た面があるんでしょうね。

伝道師として、それを伝えるに足る土壌作りに励み、また、自身の中で、言葉が熟すのを、待っておられたのだと思います。

(そして今、それらがカタチとなって現れている)


これを受けて、本当に治療者といえるのかとか、学者といえるのかとか、そういう意見も出てこようかと思いますが、先生は、このような土壌を作った、パイオニアだったわけで、誰もやってなかったんだから、誰かがやらねばならなかった。

で、先生がやった。

それだけのことです。



そして、そんなことは抜きにしても、河合先生の中には、「伝えたい」という、強い想いがあったんでしょう。





未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)
未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)





「その四」に続く…)




想いもなしに人間は動かんと、私は思うし、やったことの大きさを鑑みれば、なおさらそうだと思います。

先生の中に、強く突き動かすものがあったんでしょうね。





【蛇足】

で、こういう長々書いたことを鑑みると、「ウソツキクラブ」というものにも、感慨深い思いがしますよね。



【追記】


「君のように、なんでも正直に思うたことを口にしていたら、そのうち十字架にかけられてしまいまっせ。わしは本心なんか、そうそう簡単に口にしません。黙っといて、相手の本陣に入り込んで準備を進めて、ここぞと思うときまで、じっと待つんですわ。それまでは、人からどんなに誤解されたってかまわんのです。そういう人たちは、じつはものが見えとらんのですから」と、よく私を諭された。




(人類学者 中沢新一さんの追悼文より)
「ryuzumeiro's blog」さんより引用)
(読売新聞 Web版では確認できない模様…)



【ちょっと関連】
『言葉は「気持ち」を運ぶ道具』







ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ


■ 最近のエントリ

■ 人気ページランキング





// HOME // NEXT
Powered By FC2ブログ.
copyright © 2005 枕石漱流 日記(ユング心理学の視点から) all rights reserved.
ブログパーツ アクセスランキング
■ Amazon
■ 注目記事
■ アーカイブ
■ カテゴリ

■ 月別アーカイブ

■ 検索ぷらす


【注意】 ENTERキーだとうまく表示されないようです。申し訳ございませんが、ボタンを押してください。

■ キーワードハイライト機能

検索時、検索語句がハイライトされます。

■ BlogPeople リンクリスト

リンク集と更新状況↓



☆登録する by BlogPeople☆

■ RSSリーダーに登録

 RSSリーダーで購読する

 メールで購読する


(リンク切れを修正しました)


■ 最近のトラックバック
■ スポンサードリンク

■  
■ スポンサードリンク



■ 最近の記事
■ カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

■ FC2カウンター



現在の閲覧者数:

■ プロフィール

南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


日記について


拍手する

プロフ
電脳露店マイアソシエイトストア
おバカ映画

■ リンク
■ RSSフィード
■ インフォメーション


検索サイトiscle
(検索サイトさんです)

■ QRコード

QRコード

携帯でも御覧になれます。

■ 地域情報



ジオターゲティング





■ にほんブログ村

■