ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
最近、よく取り沙汰される、競争とか格差の問題――

ひと昔前までは「競争」が槍玉に挙げられ、今では「格差」が槍玉に挙げられている感があります。

まあ、槍玉に挙げられるからには、それ相応の理由があると思うのですが、「競争」や「競争社会」への取り組み、その負の部分が、随分と目に見えるようになってきているようです。

(「競争に耐えられない云々…」「学力低下…」とか)


ただ、過激な競争社会への疑問や反発自体は、分かるような気がします。馬車馬みたいな人生を好きな人は、そうおらんでしょう。(結果としてそうなってしまった、としても、ね)

しかし、その過程で「競争」自体を無いものとしようとした、それがいかんのだと思います。これが失敗の元なんでしょう。



「競争」や「格差」の問題は、「無くす無くさない」の問題なんでしょうか?

というよりは、実際問題、あるもので、隠そうにも隠せないもの、無くすに無くせないもの、なんじゃないですかね。

また、「平等な民主主義社会」というものを考えるなら、無くすべきじゃないでしょう。

自分の才能や努力が評価されない世界。何でも「みんな同じ」にされてしまう世界。能力差があっても、かける情熱や頑張りが違っても、出来が違っても、評価も、もらえる見返りも同じ。

私はぞっとします。気味悪くて、恐ろしいです。そんな世界には住みたくありません。

(アンフェアだ!)



大体、競争や格差の社会における、勝ち組、負け組みって、誰が設定してるんですかね?

私には、勝ち組や負け組みを(親切にも)設定してくれた人たちが、世間を勝ち組、負け組みに分け、 わざわざ格差を感じさせてくれて、 その上で、タイヘンだ! タイヘンだ! と、競争社会はおかしい、格差社会はおかしい、と、騒ぎ立てているように見えますけどね。

(しかも、先導しているような人たちが勝ち組に属してたりする。そんなアホなこともあります? ホンマ、アホらしい)



毎度毎度同じことを言うようで恐縮ですが、わたしゃ、これも大人の問題だと思っています。

子供のため、子供のためって、大人の問題でしょう。





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「その一」からの続き…)

問題は、競争や格差を無くすことではないと思います。競争や格差は、どうしてもあるものでしょう。人間には、「個性」がありますからね。

異なった性質がある以上、何らかの差は生じるもんです。

(それだから面白いんだし…)


問題は、実際問題なくすことはできない競争や格差を無くすことではなくて、競争や格差があっても大丈夫な世界、それを作ることなんではないですかね。

教育に於いて大切なことって――あるものを無いというのではなくて、あるものを隠すのでもなくて―― でも、大丈夫!! (差があっても、大丈夫!!)

そう確信をもって言えること、伝えられることなんではないの?



つまり、非常に限定された価値観で、勝った負けたと言うのではなく、

ひとつのことについていけなくても、それでお終いじゃないこと、
他のことで十分成功できること、
他の生き方で幸せになり得ること、
人生のパターンはひとつではないこと、
多種多様な人生があること、
誰だって、自分の生き方があること、
ちゃんと取り返しがつくこと、

それを教えることこそ、真の教育ではないの?


というか、教える教えないじゃなくて、大人が身をもってそれを体現することこそ、大事なんじゃないの?



大体、多くの人が疑心暗鬼にとり憑かれたように、身近な存在を競争させている現状で(競争に躍起になっている現状で)、社会が悪い、政府が悪い、学校(制度)が悪い、って言ったって、何も変わらんような気がします。

自分の中にある、「比べたがる気持ち」や「疑心暗鬼」、「あせり」や「不安」、「それらに耐えられないこと」、そっちの方が、余程問題でしょう。

(誰にでもあるものですけどね。ホント、誰にでもある)





競争や格差を無くそうとする思想の根底には、「みんな同じ」や「努力すれば何とかなる」、そういう考えが非常に一面的に働いてしまっている面があるような気がします。

(それは半分においては正しいが、残り半分においては、まったく正しくない)
(そんなもんにすがりついてしまっている)


人間には誰しも苦手なことがあって、もっというと、どうしても出来ないことがある。

「みんなやれます」「努力したら出来るんです」と言われても、どうしても出来ひんもんも、あるでしょう。

そりゃ、努力して出来るようになるもんも、ようけあります。でも、出来ひんもんもありますよ。

出来るにしても、限界があったり、すごく負担がかかるものもあるでしょう。


こんなん、しゃあないやないですか。
(仕方ないじゃないですか)

同じにするためには、何が何でも押し込みますか?

人間というものを無視してでも、枠に入れますか?

(そうなると、その枠は棺桶になるんじゃないですか?)



もちろん、努力は大事ですよ。ある程度、突き詰めないと、出来るか出来ないかは、よう分かりませんからね。

努力して出来るようになることも多いし、努力せにゃ成し遂げられんもんもあるでしょう。
(これが大事な半分)

でも、努力ではどうしようもないものもある。実際問題ある。
(こういう残り半分がある)

その時に鞭打ったら、血い流すだけでしょう。痛々しいだけや。

怠けてんのでもない、努力が足らんのでもない、そんな、どうしようもない、どうしても出来ひんことも、現実にはあるでしょう。(悲しいけどさ)


そしてその時、大人が、その現実に耐えられないからって、鞭(むち)を振るい続けたり(あるいは、「無知」を振るい続けたり)、嗚呼駄目だと絶望してみたり、こいつはアカンと放り出したり、そうしたら、子供はどうしたらいいんでしょう?

ひとつ駄目なら、全部駄目ですか?


子供を競争させとんのは誰でしょう?

差をつけとんのは誰でしょう?

負け組みにしとんのは誰でしょう?
(負けることを恐れているのは誰でしょう?)

他の生き方に目をつむっているのは誰でしょう?


生き方って、限られたモデルしかないんでしょうか?


子供の人生を終わらせようとしているのは、いったい誰なんでしょう?





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「その三」に続く…)



そして、同じような思いして、過去、痛んどったんは、いったい、どこの誰なんでしょう?



【追記】

努力するにしたって、「努力のしよう」ってもんがある。自分に合った努力をすることに、価値があるんだと思います。

(そしたら、効果も出ると思う。しかも楽しい。つらくて楽しい。つらくても楽しい)


子供にああだこうだ言う前に、
他人にああだこうだ言う前に、

大人である自分が、
それぞれの自分が、
自分なりの「努力のしよう」ってやつを体現することこそ、
真に価値があるのだと、私は思います。



【追記2】

支援や保護については、あとでちょこっと書きます。

これが抜け落ちると、痛々しいですもんね。




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「その二」からの続き…)

人生の成功は、限定されたひとつのモデルしかない、ってことはないでしょう。

もちろん、誰かの好みによるものでもない。

実際、何が成功で、何が幸せかなんて、よう分かりませんよ。
(そんなもんは、あとで分かるもん、あとで感じるもんでしょう)



どこの誰が言い出したかよう分からん成功のモデルに頼らんでも(そんな実体のないもんにすがらんでも)、自分の才能や能力を活かした成功は、実はナンボでもあるんじゃないでしょうか。


職人さんになったり、
芸術家になったり、
料理人になったり、

何かのスポーツをしたり、
何かの趣味に生きたり、

いろんな意味で、スペシャリストやエキスパートになったり、

しかも、それは画に描いたような、あるいは、偉人伝みたいな、そんな高尚なもんじゃなくても、いいんじゃないの。(高尚は高尚で、もちろんいいんだけども…)


職業で、
趣味で、
家庭人として、

ひとりの人間として、

幸せになる道は、ナンボでもあると思います。


そりゃ、失敗や挫折もあります。当然、ある。何がいいか、簡単には分からなかったりしますから。

でも、同じように、世間がいいとしているモデルが、実際のところ、いいかどうかも、分からない。一般には無難とされる道が、本当に無難かどうかも、分からない。


こういうことを、大人が身をもって知ることこそ、実は、大切なんじゃないでしょうか。

いや、実際問題、知ってるんでしょう。知ってるのに、すがりついてしまうのかもしれません。

(人間の性(さが)として、ね)





競争だ格差だと言いながら、真の問題は、「大人の見る目」の問題かもしれません。

「ちゃんと見れる」「ちゃんと評価できる」、そんな目を持つことこそ、大切なのでは?

手近なワルモン(悪者)作っても、何も変わらんような気がします。

子供に限らず、人間には、得意なところ、伸ばせるところ、そんな大いなる可能性、評価できる点があるもんです。

(それが時代や環境にマッチしているかいないかで、生きやすさにも、生きにくさにも、なり得ますがね…)


出来ひんこともあれば、出来ることもあります。
苦手なこともあれば、得意なこともあります。

それに対し、大人の視野が狭けりゃ、評価もされへん。

限定された部分以外のいいところが、無視されちまう。

ため息だけの世界になってまう。

生きた心地せんでしょう。

アカンのかと思てしまう。

楽しないでしょうな。

やる気もおきまへんわ。

(相手は、関係ない人やなくて、関係ある人ですから)



魚を陸に上げたら、泳げへん。

鳥を狭いトコに閉じ込めたら、飛べへん。

陸地のもんを水中に沈めたら、息ができひんで死んでしまう。

それぞれ、活躍のし場所、息のできる場所、ってもんがあるようです。





社会や政府があたかも負け組みを作ったみたいに言う人がいますが、何てことはない、社会や政府を嫌いな人たちが、勝ち組や負け組みの定義を作り、つまり、勝ち組・負け組みに、親切にも分類してくれて、社会や政府への攻撃材料にしとる。

そんなことないですか?

そして、大人の見る目がないもんやから、限定された成功のモデルから外れた子供たちまで、負けたようににされてしまう。

何が成功か、何が幸せかも分からん、道の途中で、何らかの烙印を押されてしまう。

烙印を押しとんのは、社会でもない、政府でもない、目に見える範囲、言葉が聞こえる範囲の、身近な大人たちでしょう。

逆に言えば、社会が否定しても、目に見える範囲、言葉が聞こえる範囲の大人が支えられれば、こんな強いもんはない。

ごっつい、支え、安心になる。



厳しいことを言うと、要は、大人が、子供の生きる道に、よう付き合わん。

ええとこあっても、評価できひん。

伸ばすことも出来ひん。

つまるところ、生きられへん。



もちろん、親を責めたらええというもんでもないです。

「今まで」というものがある以上、親もそう育てられたし、どうしたらいいか分からんのでしょう。

そりゃ、気の毒です。

責められたもんじゃない。


でも、「今のまま」やったら、どうしようもないのも事実。

いい悪いの問題やなくて、どこかで誰かがやらにゃあ、しょうがない。

しかも、知らん誰かは、やってくれへん。

遠くの誰かは、やってくれへん。

身近なトコは、手の届くトコは、自分たちでやらにゃあ、しゃあない。



こんな悲しい現実があるんだから、社会や政府、制度を責めたくなる気持ちも分かるけど、それじゃあ、何も変わらへん。

悲しいかな、変わらへん。

大人がひとりずつ立ちあがらにゃあ、どうしようもないんやもん。



社会にもすがりたい、神様にもすがりたい、誰かに何とかして欲しい、魔法があったら使いたい、それが人情でしょう。

人情として、何も間違ってないと思います。むしろ、正常な人間です。人間らしい人間です。

しかし、身近な誰かが立ち上がらん限り、状況は変わらん。大人が引き受けなあ、なんともならん。

悲しいし、痛いし、泣きたいし、つらいし、でも、なんともならん。



せやから、大人が自分の人生を、精一杯生きにゃあ、しゃあないやないですか。

社会を変えんのは、子供を変えんのは、ひとり一人の、大人です。





誰だってちょっと落ちこぼれ スヌーピーたちに学ぶ知恵
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「その四」に続く…)





【追記】

>要は、大人が、
>子供の生きる道に、よう付き合わん。

>ええとこあっても、評価できひん。
>伸ばすことも出来ひん。

>つまるところ、生きられへん。

そして、自分の生きる道に、よう付き合わん。

ええとこあっても、評価できひん。伸ばすことも出来ひん。

つまるところ、生きられへん。




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「その三」からの続き…)

競争や格差のある社会を考えた場合、(こういう言葉を使うのはあまり好きではありませんが)どうしても、「弱者」というものが出てしまうと思います。

・したいと思っても、やりようのないケース、
・努力ではどうしようもないケース、
・得意分野はあるが、それでは生活できないケース、
(残念ながら、世の中の要求と自分の才能が、マッチしないケース)
・疲弊してしまって、ともかく今は動けないケース、

そういう、いろんな事情を抱える場合が、多々あると思います。



こういう場合、当然、支援や保護は必要でしょう。しかし、それと、競争や格差を無くすこととは、同じとは思えませんね。

事情を抱えた人を支援したり保護するのと、競争や格差を無くそうとするのは、同等とは思えません。


必要なのは、競争や格差があっても大丈夫な世界、社会。そのための、支援や保護の充実。

そういうことじゃないでしょうか。



というか、理想をいうとですね、今は事情を抱えてその中に入れない人も、いつか、準備できた時に、
一歩踏み出せるようになった時に、そんな時に、「おかえり!」「いらっしゃ!」、そういって迎えられる社会こそ、必要なんじゃないの。

今は無理でも、いつか、自分なりの武器を持って、才能を見出し、それを磨いて、ちゃんと休んで、余力をためて、競争や格差の中に飛び込める、帰れる、そんな世の中こそ、素晴らしいんじゃないですかね。

支援や保護って、そのためにこそ、使われるべきものだと思います。
(まあ、理想ですけどね)



そして、将来的に帰れるために、復帰するために、少しの厳しさを残しておくというのは、ありだと思います。

厳しさを押し付けるのではないけれど、厳しさを残しておいて、将来的に、その厳しさを引き受けられるようになった時は、引き受けてもらう、そういう余地を残しておくのは、ありだと思います。


一番いいのは、何らかのカタチで、何からのカタチを見出して、自分なりのカタチで復帰することだと思うのです。

それを急かす(せかす)でもなく、妨げるのでもなく、取り上げるのでもなく、待てる社会、迎えられる社会こそ、理想の、未来のあるべき社会ではないでしょうか。





格差、格差って、差に耐えられず、そっとしておけないのは、誰?

差を指差して、笑ってるのは、誰?

勝ち組と負け組みに分けとるのは、誰?

ひとりの人間が一生懸命生きようとしている時に、何か言わんと気がすめへんのは、誰?

そうやって、心をくじくのは誰?



どんな世界が素晴らしいのかといえば、それぞれが個性を持ち、つまり(個体)差をもって、それでも楽しく生きていける社会こそ、素晴らしいんだと思います。

もちろん、現時点で、これは理想です。全然、できてない――そう思う。

でもね、ひとり一人の人間が、ちょっとずつ、何かしらを引き受けてでも、変わらにゃ、理想なんで実現できひんでしょう。

しゃぶりつくしたカピカピの骨をいつまでもしゃぶるみたいに、訳の分からん化石みたいなユートピア目指すより、ひとり一人のパーソナリティーを尊重できる、そんな多様性を包含した世界を目指す方が、気が利いてると思います。

(その骨をしゃぶってしまうのが、人間ですけどね)
(私も、私なりのパターンというカピカピの骨を、いまだ懐に持ってますわ…)



実は、こういうのは、高尚でもなんでもない。平凡なことなんです。

できるだけ人様に迷惑をかけないように気遣いながら、自分の好きなことを見出し、自由に生きられる世界、社会。

同じであることを喜び、違いのあることを尊重し、触れ合ったり、そっとしておいたり、それを不細工ながらもやっていく世界。失敗しながらでも、修正していく世界。

気遣いのフィードバックとして、支援や補償のある世界。


人に迷惑をかけないようにしましょう。
困っている人は助けましょう。
自分を大切にし、相手を大切にしましょう。



そんな、小学校の標語みたいなのを、ちゃんと体現できる世界。

ある意味、「大人なら最低限やるべきこと」、それを体現できる世界、自分の出来る範囲を引き受け、体現できる世界。

それこそ、これからの世界じゃないですか。


当たり前やけど難しい、難しいけど、シンプル、そういう社会こそ、理想への近道なのでは…。


つまり、身近でしなくてはいけないことを、しっかり体現する、大人になる、それが必要なんだと思います。



社会を構成しとんのは、人です。もっというと、ひとり一人の我々です。人が変わらにゃ、社会は変わりません。よその誰かはやってくれへんのです。

ひとり一人の大人が成熟してこそ、社会も成熟するんだと思います。

それも、特別なことをするんではなく、身近なすべきことを、まず大人から体現するだけです。

そして、その究極のカタチが、自分をしっかり生きることだと思います。自分になることだと思います。

(それを個性化と言います…)





スヌーピーたちのやさしい関係〈4〉最高だったり、最低だったり (講談社プラスアルファ文庫)
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(ひとまず、終わり…)





気持ちが入った分、ドギツクなったことをお詫びいたします…





【関連記事】
「なるようにしかならないよ」




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『専門家ら100人規模で独自調査、年金検証委が中間報告』
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070710it13.htm

>年金記録漏れ問題の原因解明・責任追及を行う総務省の
>「年金記録問題検証委員会」(座長=松尾邦弘・前検事総長)は10日、
>中間報告を安倍首相に提出した。
>今秋にも、最終報告を取りまとめる方針だ。

>問題の主な原因を「年金記録管理のシステム・事務処理の問題」と
>「社会保険庁の組織上の問題」という二つの要因に分類した。





問題点をざくっと挙げると、

・コンピューターに入力する際などの作業ミス、
・問題がある管理システムを使い続けるなどの怠慢
(また、これらに対するチェック体制の甘さ)
・社会保険庁の組織統治の欠如
・(当たり前の)法令を順守することへの意識の低さ
(常に守られているという、危機意識のなさ)

などがあるでしょうか。。

つまり、これは労働(あるいは労働意識)の問題だと思います。


年金問題で、現内閣がものすごく叩かれていますが、
私はそれに対し、すごく違和感があるんですよね。

このような体制の社会保険庁を放置したという意味で、与党に責任はあろうかと思います。
現政権としても国民に謝罪しなければならないだろうし、
しっかりとした対応をとらねばならないと思います。

しかし、あたかも全責任が現政府にあるかのような論調は、
その通りなんですかね?

それは<今の>政府のせいなんですか?

これを放置したのは、<今までの>政府であり、
<今までの>政治家、

そして、そういう組織体制を助長させたのは、
――全部とは言いませんけども――
労働組合にも一因があるのではないんですか?



その前に、「責任論」の話になりますが、
私は責任とは、

・誰が何をして、
・誰が何をしなかったのか、
・そして、それによって何が起こったのか、

そういうことだと思っています。
(それによって生じるものだと思います)

それは極端な話、個人を特定でき得るものであり、それだけに痛々しいものです。
(個人やその家族を破壊するだけのものを持っているんですから)

また、
単に、現在「長」であるから責任があるといった、曖昧なものではないとも考えています。

まさに、

・誰が何をして、
・誰が何をしなかったのか、
・そして、それによって何が起こったのか、

です。

そういうことの検証なしに、現政権にすべての責任を押し付けるというのは、
私の考える責任のあり方とは、相反するものです。

曖昧で、
正直、意味が分かりません。

(但し、責任に対する考え方というのは、それぞれの人がそれぞれの人なりに持っていると思うので、いろんなカタチがあるのだとは思いますが…)



但し、責任云々を問題にするにしても、
個人を責めるといった悪者探しをすればいいというものではなくて、

例えば、入力ミスにしても、
入力ミスした誰それさんが悪いということだけではなくて、
入力ミスするだけの(入力ミスが蔓延するだけの)、
そういう組織体制なり、布置なり、事情なりがあるわけで、
そういうところまで目を配らなければならないでしょう。

個人の意識の問題もあろうし、
そういう個人の意識を作り出した、何かしらも問題にしなければならないと思います。

また、私の考えるフツーの会社なら、
ミスは出ないようにするものの、それでもミスは出るので、
ミスが生じた時にどうするか?
そういうところにまで考えが及んでいなければならないのだと思います。

ということは、ミスが生じてからの意識というものも、問題にしなければならないんでしょうね。
(意識改革するならば…)



というわけで、現政権に問題なり責任なりがあるというならば、
それは、
・問題が浮上してからの対応や姿勢
・これから問題を処理していく上での対応や姿勢
なのであって、

今回の事態が起こった責任の「すべて」を<今の>政権に押し付けるのは、筋違いだと思います。

卑怯だとさえ思う。



そして、社会保険庁の職業意識の問題や、モラルの欠如には、
「労働組合」と、そのあり方というものも大いに関係していると思います。

労働組合というのは、労働者の権利を守るという意味で、必要なものですが、
それも力をつけ過ぎると、こんなことになってしまうということです。

いわば、「過保護」ですよ。

(これをもって労働組合のすべてを否定する気はなくて、(例えば、多くの会社員が)労働組合の恩恵を受けているのも事実なんですが、それも程度問題だということです)



『Q 労組は? 勤務時間 細かい覚書』
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/feature/20070618ik11.htm

>旧評議会は、年金システムのコンピューター化に伴い、1979年3月と5月に、
>社保庁との間で労使間の「覚書」や「確認事項」を交わした。
>この中には、「オンライン端末の1日のキータッチは平均5000タッチ以内。
>最高10000タッチとする」
>「端末の連続操作時間は50分以内とし、
>50分ごとに15分の操作しない時間(休憩)を設ける」
>「端末の運用時間は、勤務時間内とする」などが盛り込まれている。

(↑もっとも、「1979年当時」ということも頭に入れておく必要があるのでしょう)


『(上)バイト任せ ミス多発』
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/feature/20070605ik0c.htm

>「コンピューターへの年金記録の入力作業は、主婦など素人のアルバイトに任せていた」。
>東京都内の社会保険事務所に勤務していた元職員(63)は、
>記録漏れを引き起こした電子化作業について、こう証言した。

>社会保険庁には、誰のものかわからない保険料納付記録が約5000万件もある。
>中には、氏名や生年月日などの入力ミスが大量に含まれている。
>「業務量が膨大なので、職員の対応には限界があった」。
>元職員はそう語ったが、作業を外部業者に委託したケースもあるなど、
>社保庁側の管理監督も不十分だった。
>記録漏れの原因が、アルバイト任せのずさんな作業にあったことは間違いない。


『手抜き日常化、残業にケチつける上司…「解体仕方ない」と社保庁職員』
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07070209.cfm

>男性が社保事務所で働き始めたのは1980年代。
>一通り業務を覚えると、職場の異常さに気づいた。
>指導してくれた先輩職員が、自分に教えた通りに仕事をしていない。
>例えば、年金番号をきちんと確認しない、窓口を訪れた人に給付額を丁寧に説明しない、
>昼休みになると窓口に人が来ても無視する……。

>積極的に仕事をすると、上司にしかられた。
>残業をしていると、「そんなことせずに帰りなさい」。
>揚げ句の果ては「君が仕事をし過ぎると、周りがさぼっているのが目立つだろう」。


(これらが社会保険庁のすべてと、思いたくもないですけどね)


社会保険庁の職員を、人外の化け物「コウムイン」として断罪する気はないですけども、
必要最低限の緊張感みたいなものはあったのかと、疑問を呈したくもなります。

一般の会社に勤める人たちと同程度の、危機感はなかったのかと。


これらを踏まえて、
年金に関わる人たちが変わらないことにはどうしようもないことは、
分かっていただけると思います。

実際に働く人の意識が変わらなかったら、どうしようもないでしょう。

人の意識が変わらんで、組織の体質が変わるわけがない。

そして、そういう意識を育てたのには、労働組合のあり方という問題も、当然、外せないと思います。
(すべてをそのせいにするのも、どうかとは思いますが…)


労働者の保護は大事なことですが、
保護も行き過ぎて「ぬるま湯」にまでなると、
どんなまともな人でも、感覚のズレが生じるのだと思います。

堕落するんでしょう。

そういう「根っこ」をなんとかしないと、どうもならんですよ。



責任、責任というなら、

・誰が何をして、
・誰が何をしなかったのか、
・そして、それによって何が起こったのか、

これをもっと明確にしてほしい。

今の「長」だから責任があるというのは、納得しがたいものがあります。
(謝罪も対応もしなければならないにしても…)

<今の>人が出来るのは、
・現在の対応、
・未来への対応、
でしょう。

こういう事態を引き起こした責任は、こういう事態を引き起こした人(人たち)が取れよ、
舐めてんのか!

<今の>人に対して批判すべきは、
・現在の対応、
・未来への対応、
に対してでしょ!

<今まで>の責任まで<今の>人に背負わせようとするなんて、汚いこと、してくれんな!
(また、それを政治利用すんな)


問題が生じて当たり前の、「ぬるま湯」を作ったんは誰か?

それを明確にし、
また、修正してほしいもんです。



多くの人が何の疑問も持たずに、みんなの怒っている対象に怒るというのは、
正直、怖いものを感じます。

怒るにも、怒るだけの理由ってもんがあるでしょう。

怒るようになってきたのは――関心が高まったという意味で――喜ばしいことでもありますが、
今度は、「怒り方」というのにも目を向けてほしい。

人それぞれ、いろんな意見があっていいと思うんですが、
せめて、自分で納得して怒ってほしい。

そう思います。


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生息地:関西
分類:昭和人間
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黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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