ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
主機能は、利き手に似ています。

それは普段よく使うので、洗練されていて、ある程度うまく動きます。

使い慣れているんですね。


一方、劣等機能は、利き手じゃない方の手に似ています。

それはあまり普段使われず、故にあまり洗練されておらず、どちらかといえば不器用で、動きが不細工です。

使い慣れていません。だから、へたくそ。未成熟です。



これらの手とどう付き合っていくか、それが自分のタイプとどう付き合っていくかということの、ヒントになるかもしれません。


得意と不得意、
成長と飽和・限界、

壁、突破、急成長、

エースとジョーカー、

それらの兼ね合い。



使い慣れてないものは、大概不細工で不器用、へたくそですが、それだけに、可能性を秘めていたりします。



【蛇足】

両手の鳴る音は知る、
片手の 鳴る音やいかに。


[サイト内タグ]:  タイプ  主機能  劣等機能



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■無意識

心の中の、意識できない、深い部分。

広い意味での、心のありよう、
人間の内界のありよう。

意識できない部分を含めた、
(意識できる部分を越えた)
心のありよう、人間の内界のありよう。


三省堂「大辞林」によると、

>〔心〕 通常は意識されていない心の領域・過程。
>夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。
>潜在意識。深層心理。


意識を補完する機能を持つと思われる。
限られた意識をサポートするともとれる。

意識とは絞ったり、限定することでもあるが、
その相対する存在である無意識は、無限の広さを持っている、
故に、無意識。

人は部分を意識できるが、全体を意識できない。
人の意識できる全体は、もっと広い全体の部分である。(*1



■個人的無意識

比較的浅い部分にある、無意識の層。
意識と隣接しているから、個人的な色合いが濃い。

個人が体験したことで、意識の枠組みに収まらないものが、
ここにあると仮定できる。

平たく言えば、
何らかの要因で、意識から締め出されたり、はみ出たものが、
この層に存在する。

(「影」とか…)



■普遍的無意識

意識から離れた、より深いところにある無意識の層。
意識と離れているから、その色合いはより普遍的になる。

人類という枠組みだと、人類に共通する普遍的なものが、
この層にあると思われる。

(個人的には、機制(メカニズム)的なものは、この層にあると思う。但し、個々の、機制から発生したものは、むしろ個人的無意識にあるんでしょう。それは個人的な体験だから。ここにあるのは、各種のメカニズムとか、本能とか、すべての人間に共通する土台になるもの)

個人的な体験を超えて持つものが、
ここにあると仮定できる。



因みに、心理学のスタンスでいえば、
無意識の層にあるものに影響されて起こる(意識の側の)現象に重きが置かれ、
それを手がかりにして、
無意識の層にあるものを意識的に捉えようとしたり、
定義付けしようとしたりするのだと思います。

逆に、宗教的なスタンスだと、
むしろ、無意識の層に自ら降りていって、
無意識を十二分に体験することが、その目的になっているような気がします。
(体験することで、結果、意識化することになったりする)

それぞれ、同じようなものを問題としているのだけれど、
しようとしていることは、違うように思う。
(アプローチとか、立ち位置、目指す到達点とかは、違うんじゃなかろうか)

同じようなものを解明しようとしているのだけども、
心理学は、無意識の層にある「そのもの」(例えば、元型)よりは、
「そのもの」によって、意識の層に現れる何か、を問題にしており、

宗教の方は、純粋に、「そのもの」を探求しているような印象があります。

ある意味、
心理学は人間(=意識)の側に立つが、
宗教はむしろ、自然とか、宇宙(=無意識)の側に立っているような気がする。
(身を置く、といってもいい)

もっとも、どちらの立場にしても、
「ゆるさ」や「あやふやさ」は持つだろうし、
また、それでいいような気もします。

(逸脱さえしなければ…)





もう一度、意識と無意識の話に戻ると、

意識(あるいは、意識する行為)というものは、
暗がりでサーチライトを照らすようなもので、

その限定された、照らされた部分を、我々は意識することになります。

それは、目に見える範囲、ということでもあり、
(個人的に)体験したこと、ということでもあり、
集中して見たことでもあり、
多くのものから絞ったものでもあるでしょう。


逆に、そこからはみ出す物が無意識であり、

それは、目に見える範囲の埒外にあり、
個人の体験を超えたものであり、
拡散した広い範囲であり、
多くのものが混沌として存在する世界なんでしょう。


で、その両方によって生かされているのが、人間なんでしょうね。





(*1
例えば、我々は地球全体を意識できない。
しかし、地球の部分である何かは意識できる。
また、地球だって、宇宙の一部だったりする。

これは人間総体に対しても同じで、
我々は自分にしろ相手にしろ、
総体としての人間すべてを意識することはできないが、
その部分を意識することはできる。

また、これは人間の内界にもいえ、
我々の心というものは、意識できる範囲以上に広く、多様である。

だから、不可解で、怖ろしい部分も有する。

(そして、それだけに、可能性に対して開かれている)



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無意識とは、意識できないほど広いものであり、
意識できないほど広いから、無意識である。





広ければ広いほど、そこにはたくさんのものがある。

たくさんのものが集まれば集まるほど、それは多様で、広い。
あるいは、深い。

広く、たくさんのものが集まっているから、混沌としている。

広く、たくさんのものが集まっているから、意識できない。


意識できるのは、意識できる程度に限られたもの、
意識できるのは、意識できる程度に絞られたもの。

意識するとは、切って、分化することでもある。
あまりに多様で混沌としているものは、意識できない。



我々は視界に納まりきれないものを見ることはできない。
容量を超えることを、考えることはできない。

しかし、見ている範囲外の世界も確かに存在するし、
考え切れないたくさんのものが、世界に存在する。


人間の身体においても、
意識してマウスをクリックしたり、文字を読んだり、コーヒーを飲んだりするほかにも、
無意識の内に、各臓器や細胞が活動し、
我々を、人間総体として、生かしてくれる。

心のありようにも、同じことが言え、
意識して考えたり、感じたりする他にも、
いろんなことが処理されている。

それはいわば、自動処理であって、
意識は使われない。

それによって、人間は保護され、
同時に、ややこしい事態も生み出す。


あとで(あるいは、別とのところで)書くが、
コンプレックスには、この自動処理がついて回って、

合理性や事実を欠いた「A→X」という処理が、
意識の範疇を越えて、行われてしまう。

何らかのものを悪と決め付けたり、
何らかのものを善と決め付けたり、
そういうことが起こるのは、そのためだと思われる。



話を戻すと、
この広い、心のありようの中にも、
集まりとか、塊とか、カテゴリがあって、
それぞれは、それぞれの傾向を持つ。

それが、「母なるもの」であったり、「父なるもの」であったり、
「影」であったり、「アニマ」や「アニムス」であったりする。

それをユング心理学では、元型と呼ぶ。


それらは表徴の可能性であって、
そういうものが意識の範囲に表徴する可能性を持っている。

そういうものが我々に内在して、
意識という表面に現れてくる可能性を有している。

また、その表徴の可能性は多様であり、
ある人は宗教的に、ある人は芸術の分野で、
また、悲しい例だと、犯罪として表れる場合も無いとはいえない。

そして、可能性というだけあって、
誰しもに内在するものの、
それが表徴するかどうかは、分からない。

表徴するにしても、
いつ、どういうカタチで、表徴するかも分からない。


ただ、自己の表徴は、生き方というものに深く関係し、
その付き合い方によっては、例えば、目詰まりのようなものを起こすかもしれない。

つまり、表徴しようとする可能性が大きくなってくると、
その行き先がある程度、定まらないと、
ややこしいことが生じるのかもしれない。

(大きなエネルギーほど、行き先が定まらないと、危ういことになる)
(ホースをつまめばどうなるか? 血管が詰まればどうなるか? 噴火口をふさげばどうなるか? エネルギーというものは行き先を求める)

社会で生きる以上、いろんな制約が生じるのだけれども、
その中で、表徴可能性というものに、どれだけ自由度を与えられるかというのが、
この場合の、キーワードになるのかもしれない。



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■影

我々はいろんなことを意識しながら生きているわけですが、
自分のしたことや、目の前で起こっていること、
そのすべてを意識するわけにはいかないので、

そういう個人的な経験のうち、意識化されないものは、
意識の外、無意識ということになります。

無意識といっても広いんですが、
そういう個人的な経験に基づくものは、
意識に比較的近い、個人的無意識にあるということになります。



そういう意識化されていない部分、
表立って 生きていない 部分を、「影」といいます。

人間というのは生きているうちにパターン化されてくるものですが、
そうすると、いつも 意識から締め出されるものとか、
いつも 意識の外に追いやられるもの、も出てくるわけで、
そういうものが、意識に比較的近い無意識の層で塊を形成し、
「影」になるわけです。



実際の影の特徴を思い出してみると分かりやすいのですが、

・自分のすぐ傍にあり(自分にくっついていて)、
・見ようと思えば見えるが、見ようとしないと見えない、
・影が出現するには、映る先――地面とか、床とか、壁とか――が要る、
・輪郭はあるが、中身ははっきりしない、

そういう特徴が、元型としての「影」にもあるわけです。



自分の生きていない部分、
意識化されない態度や行動というものも、
それは意識化されていないとはいえ、自分から出たものですから、

・自分に付随していて、すぐ傍にあります。
・気づこうと思えば気づけなくもないですが、よくよく注意しないと気づけません。
・気づくには、それを映す(投影する)対象が必要で、影を映す先が要ります。
・また、影の外郭、大まかな動きは分かるにしても、その中身となると、よく分かりません。

このような共通の要素が、実際の影と、元型としての影には、あるんですね。



その影が活発化するときもあって、
そういう時、我々は、人が変わったように○○してしまいます。

人が変わったように怒ってしまったり、
人が変わったように熱中したり、こだわったり、
言ってはならないことを口走ってみたり、
普段しないようなことをしてしまったり、

そういう、普段 生きていない 面が、ふっと顔を出したりします。


内々にありながら、あまり意識化されず、
ありながら生かされていない反面・半面が、
ある拍子に、ふっと顔を出すのです。



こういうことが生じて、
驚いたり、愕然としたり、
あるいは、トラブルが生じてしまう場合もあるでしょうが、

それが本質的に悪かというと、そうはいえませんよね。

悪い部分もありますが、それを悪とは断じきれない部分もあります。

普段は、それを悪だとしているから、抑え込んだり、生きてなかったりする。
しかし、それは全面的に悪だというわけでもなく、
また、人間ならば誰でも持っている要素でもある。

そういうものが、「影」を形成しやすいようです。

普段意識から締め出されている、個人の中の少数派が、
影を形成するんですね。




「影…②」に続く…)




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「影…①」からの続き…)

例えば、○○に貪欲なことをよしとしない人がいたとして、
そういう人は、その○○を普段は意識から締め出していて、
そういう要素は 生きていません

そういう要素はできるだけ排除しようとするし、
それもパターン化されると、
そういう要素がちょっと顔を出しただけで、もう処理されます。
無意識の方へ追いやられるんですね。

で、この人にとっては、その○○が影になるわけです。



人によって、それは性的なことであったり、
出世欲や独占欲といったものであったり、
一生懸命ということだったり、怠惰のようなものであったり、
人によっては笑うことだったり、怒ることだったり、
いろいろあると思います。

人によって、そういう通常生活の中に取り込めなかったものが、
無意識の中に締め出され、密かに塊を作り、
影として活動しだすんですね。



そう考えると、影は本能的なものであったり、
人間が生まれながらに持っている機能であったり、
そういう、生物学的な側面も持っているように思えます。
(人間としては当たり前の感情だったりもするでしょう)

そういうものの内、何らかの要因で、意識から締め出されているものが、
暗い領域で、影として存在しているわけです。

そして、時には意識の方に顔を出してきたり、
何らかのカタチで影響を与えてきたりするんですね。



こういうものは、例えば宗教的に捉えれば悪かもしれませんが、
人間的に捉えれば、そうでもなかったり、
悪く働く場合もあれば、そうでない場合も多々あるわけです。

そればっかりでも困るけども、
それが無くても困る、みたいな…

ある場面においては出てくると困るけども、
別のある場面では無いと困る、みたいな…

影の一面とは、そういうものだったりします。



影というと、どうしても悪いイメージがあるし、
実際、意識からすればそういうものだったりしますが、

場面場面では、悪というわけではなく、
むしろ、「意外といい面」も持っているわけで、

影との対決には、そういう意味もあるわけですね。



人間、生きていると、表の部分は鍛えられ、
ある程度は洗練されてくるのですが、
裏の部分は、放っておかれ、未熟なままです。

それも過ぎると、バランスが悪くなったりもするでしょう。

そういう時、我々は影との対話・対決を通して、
普段とは反対側の、手つかずの未開地を、己の中に見出してゆけるわけです。


そういうのはもともと、自分の趣味には合わないものだったり、
拒否してきたものだったりするし、
今まで手をつけてないので、未成熟で、
それを発現しようとすると、どうしても不器用になって、
余計に嫌になったりもしますが、

そういう大変なことをしてこそ、足りない部分を補えるのであって、
「今まで」とは、変われるんですね。


影には、こういう意味があるわけです。

影というのは黒い、なんやよう分からんものですけども、
それと付き合うことで、自身の盲点にも目が行くわけです。

自信の背後にある、未開の部分に、
気づかせてくれるのです。

それによって、今までよりはるかに大きい、
全体性というものに近づけるわけですね。




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