ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
何ごとも、「頑張りどころ」というものがあります。

生きていると、頑張らねばならない「時」があります。

「今、その時」とか「まさに、その時」というやつです。



一見、昼行灯(ひるあんどん)みたいな人であったり、ふらふらしているように見える人でも、「頑張りどころ」を心得ていたり、見逃さない人は、それなりの成果を残したり、その分、人から評価されたりします。

逆に、普段から、頑張っている、頑張っているという人でも、肝心の「頑張りどころ」でへばってしまい、それほど評価されない人もいます。

前者のような人は、普段から余裕があり、その余裕の分の力を、「頑張りどころ」で使っていると言えるのかもしれません。
逆に、後者のような人は、いつも余裕がなく、その分「頑張りどころ」で力を使えない(使う分の力を蓄えられない)と言えるでしょうか。

もう少し言い方を変えてみると、
前者は、「頑張りどころ」のために使う力を蓄えることを知っており(力の使い方が上手で)、
後者は、それを知らず、力の使い方が下手だと、言えるのかもしれません。

また、後者の人が前者の人を、「あの人は普段頑張っていないのに~」と羨ましがったり、非難することもあるかもしれません。



日本人社会には後者のタイプの人が多いかもしれませんね。
これは「和を大事にしたり」「場を大事にする」日本人の気質にもよるでしょうか。

ともかく、みんなで頑張っている、空気が大事なんですね。
(頑張りによる成果よりも、頑張りの共有のほうを好む人もいます)

まあ、いつも頑張るというのは、いかにも日本人が好みそうなことですが、
いつも頑張っていたとしても、頑張りどころで力を発揮できなければ仕方ない部分があるし、それで自分の価値を落としてしまう場合もあります。

やはり、肝心なところ、というのは、ありそうですね。



といっても、私は頑張り――普段からの頑張り――を否定する気はありません。むしろ、普段から頑張る人が好きです。

しかし、同時に、もったいない性分でもありますから、
どうせ頑張るなら、できるだけ有効に力を使ったほうがいいとも思います。

それで評価を上げてほしいとも、願います。

だって、損じゃないですか。
せっかく力を使うなら、ちゃんと得るものは得たいですよね。

そのためにも、「頑張りどころ」を見極めるのは大事なようです。


それに始終頑張ってばかりだとパンクしてしまうし、人生の楽しみも半減してしまうので、息を抜くことや、休むことも上手になったほうがいいかもしれません。

その方が人生が豊かになるし、「頑張りどころ」に使う力も溜まるようです。



せっかくのチカラ、
有効に使いたいですもんね。

そのためには、頑張るのもほどほどにして、時には立ち止まり、
勘所というものを考えてみたり、
その勘所で頑張るために、英気を養うのも大切かもしれません。




【蛇足】

いつも頑張らず、頑張りどころでも頑張らないのは…(笑

とはいえ、頑張っているかどうかは、外からはなかなか見えないし、自分でも自分の頑張りを知らない場合がありますから、この辺の判断は、実は簡単ではありません。

「頑張りどころ」のひとつの例としては、昔話の「三年寝太郎」が挙げられるかもしれませんね。
(「怠け者だ~怠け者だ~」と言われた寝太郎のおかげで、村が救われたりします。外的には寝ていても、内的には活発だったりするんですね)
(みんな一緒に頑張るのを拒否し、外的には退行したような状態になりながら、考えをめぐらし、「いざその時」に力を発揮して、現状を打破したわけでしょ。それによって滞っていたものが、流れ始めたわけです)




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河合隼雄 先生はその著書の中で、「二つの目で見ると、奥行きがわかる」とおっしゃっています。

甘い目と厳しい目、
男の目と女の目、
主観と客観、

などなど…



「そのときの状況に応じて必要と感じられる、二つ以上の目の組み合わせにより、状況を立体的に把握しようとすることが大切である」



というのです。

これは興味深いことですね。



確かに人間は、二つの目で見ることで、目の前の世界を立体的に把握できます。実際、片目を閉じて物をつかもうとすると、うまくつかめなかったりします。

この目は、右の目と左の目ですが、世の中を認識しようとすると、他にもいろんな目がありそう。


・頭で考えようとする自我の目と、心で感じようとする自己の目
(あるいは、意識的な目と、無意識的な目)
・理性的な目と、本能的な目
・思考的な目と、感情的な目
・感覚的な目と、直観的な目
・世間的(一般的)な目と、個人的な目
・父性的な厳しい目と、母性的なやさしい目
(「目」を「見方」という言葉に変えてもいいかもしれません)


我々人間は、一方の目のみで見ようとすると、その全体像を捉えられなかったり、一面的になったりしますが、二つの目、その両方の側から見たとき、今まで見えなかったものが見えてくることもあるかもしれません。

「ん?」と、ちょっと立ち止まれるかもしれない。

少しだけ、見え方が違ってくるかもしれないし、奥行きが分かってくるかもしれない。

今まで見逃していたことに気づき、ハッとするかもしれないし、今まではつかめなかったものが、つかめるかもしれない。

「平面的」、「立体的」というのも、興味深い言葉です。あと、「奥行き」や「距離感」というのもありますかね。


こういうのは特に、閉塞状態に陥っているような場合は効果的かもしれません。視野が狭くなっていたり、知らず知らず決め付けていたり、考え方や捉え方が固定化しすぎている時、助けになってくれるかもしれません。(物事に二面性がある以上、その両方から見ることは大事なような気がします)

いつも見ている方向から見る風景と、違う方向から見る風景は、意外と違っているかもしれません。多面体をシルエットで見るときなど、そうなりますよね。クイズとかで、あるでしょ。

いつもと違う見方をする時、「あれ? そうなの?」と思う面が出てくるかもしれません。



ということは、自分なりのスタイルというものを築いたり、自分のなりのパターンというものを持つ我々は、ある特定の、「ひとつの目」で、世界を見ているのかも知れず、それによって、世界を狭めているのかもしれないのです。

しっかりした見方や考え方を構築する過程で、どうしても固定化してしまう。固定化するから、見方が同じになってしまう。死角を作ってしまうのです。見逃す範囲を、どうしても作ってしまう。


でも、悲観するのは早いようです。

ということは、別の視点を持てば違ってくるということですもんね。今持っているものと同時に、もう一方の目が開き、「二つの目」で世界を見渡せるようになれば、世界は、今以上に広がるかもしれない。そういう可能性があるということ。

見逃している部分を見れるようになれば、また、変わってくるということ。



但し、やはり、いいものにはリスクがあって、「もう一方の目」というのは、だいたい、普段使っているのとは、反対の傾向を持ち、即ち、自分の趣味には合わないものだったり、どちらかというと、苦手なものだったりするようです。

だから、それを得るには、勇気とか決意、時間とか余裕、あるいは、試練というようなものが、必要になるのかもしれません。

ということは、もうひとつの目が必要だということに気づくだけの、困難や苦悩がいることになる。

そう考えると、悩ましい状況やとんでもない閉塞も、それに気づかせるための高次のセッティングのように感じなくもありません。



さあ、違う視点を持ちましょう。

もうひとつの目を開きましょう。

みたいな…



まあ、そこまでいくのが、たいへんなんですけどね。

(いいものというのは、やっぱり、高くつくようです…)





こころの処方箋 (新潮文庫)
こころの処方箋 (新潮文庫)





まあ、目というのは自分じゃなくても誰かが持っていたりするので、それを借りるというのも、ひとつの手かもしれません。

それがフィットするようなら、時間をかけて馴染ませ、自分のものとすればよい…





【蛇足1】

「目が覚める」「目をつむる」「目一杯」「目利き」「目覚め」「目安」「目的」――「目」に関する言葉はたくさんあります。

ともかく、「目」も有効に使うと、いろんなものが得られそうです。

ただ、「ひどい目」に合うのは避けたいものですね。

(まあ、それにも意味があったりしますが…)



【蛇足2】

人は左右の目の視野の違いによって距離感をつかんでいるわけですが、その時、目標とする物と左右の目との角度が大きいほど、距離感はつかみやすくなるそうです。

斜めに構えると視野の角度は小さくなるわけで、正面から見たほうが視野の角度は大きくなって、その分距離感はつかみやすいようです。

といっても、正面から見据えるのはたいへんなようですけど…




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前に、「頑張りどころ」という記事を書きましたが、頑張りどころを心得ている人は、「生きるのがうまい人」と言えるかもしれません。

普段は、ほどほどに頑張り、趣味などで人生を楽しみながら、ここぞという頑張りどころでは、有効に力を使い、苦難を切り抜けたり、苦難の先の宝を得たりします。

それ故に、人から信用を勝ち得るということもあるでしょう。



一方、「生きるのが下手な人」はどうでしょうか?

普段から、頑張りすぎてしまい、人生を楽しむこともあまりなく、ここぞという時には力を使い果たしてしまっているので、苦難を乗り切れなかったりする。そんな人かもしれません。

ただ、いろんな事情により、いつも頑張らないといけない状況に追い込まれる場合もありますから、この辺は難しいところです。周囲の理解や協力がないと、なかなかうまく生きられない部分があるようです。

何らかの事情でいつも頑張らざるを得ない、そういう時は、ある意味ではその人は被害者であって、責めることはできませんよね。むしろ、慰める相手? 同情する相手? (まあ、事情が分からないので、そうならないのが世の中のつらいところです)



うまくいかないのは、自分のせいだけでもないでしょうし、誰かのせいだけでもないようです。原因はともかくとして、ともかく、そういう関係や布置が出来上がってしまっているのでしょう。そこが問題。

誰それが悪いということではないにしても、問題がある。不都合があったりする。

しかし、見方をかえると、せめて自分でコントロールできる部分は、力の使い方を有効にコントロールした方がいいかもしれません。問題や不都合はないほうがいいですからね。

とはいえ、こういう事は経験しないことには(あるいは、失敗しないことには)、なかなか分からない部分がありますから、ますます難しいところです。

ただ、ここでまた、少し見方をかえれば、今の苦難や失敗も、それを教訓にすることができれば、苦難や失敗が、「糧」や「宝」に変容する可能性だってないとはいえません。(まあ、必ずそうなるともいえないんですけどね)

自分で「生きるのが下手」だと思ったら、「生きるのが上手」になるように、工夫したり努力したり、あるいは信頼できる人に相談したらいいかもしれませんね。

ひとつの目だと見えないものが、ふたつの目だと見つかるかもしれません。「確かにそう、でも、そんな見方もあったのか」、そういうものに気づくかもしれません。

何がつらいのかというと、いつまでもつらいから、余計につらいのであって、そこを抜け出すことを、まず考えた方がいいのかもしれません。(闇の中にうずくまる限り、ずっと闇の中ですから)



あるいは、「生きるのが下手」だと受け容れることで、新たな道が開けることもあるかもしれません。

人間どこかに苦手や下手な部分は持つもので、それはそれでしょうがない部分があるのですが、それを前提とすれば、また違った生き方もできるかもしれません。

ともかく、何かしらのイライラが溜まったり、不安に襲われたり、もやもやするものがあるという事は、自分にとって何か「うまくない」部分があるということだから、まずはそれを受け止められるようになることが先決かもしれませんね。

といっても、これが一番つらくって、なかなか難しい。誰にとっても、難しい。

だから、余裕がない時は、休むことも大事でしょう。受け止められるようになったら受け止める、そうじゃない時は、休養も必要です。



まあ、人間、完璧なんてことはありえませんから、どこか「うまくない」部分はあるものですが、それを受け容れられない時は、何とか「うまいように」変容させることも考えた方がいいかもしれません。

まあ、できる時に、なんですけどね。

また一方で、たとえ「うまくない」部分があっても、自分が納得して受け容れている場合は問題無さそうです。(「これでいいのだ」ですかね)



人間、何でつらいことになるのかというと、前述のように、自分の「うまくない」部分をなかなか受け止められないからであって、だから余計なことをしてしまうんです。(もちろん、私だって同じ)

それは例えるなら、

風邪をひいているのに下剤を飲んでいるような、
骨折しているのにかゆみ止めを塗っているような、

そんな、マンガチックなことだったりします。

というのは、「うまくない」部分を見れないので、そういうことをしてしまうのです。

場合によっては、

風邪をひいているのに薄着で走り回ったり、
骨折しているのに運動したり、

逆効果なこともしてしまうわけです。

「うまくない」部分を避けることで、自分の患部に目をつむり、結果、「そうしたらいいこと」まで見逃してしまいます。

いや、別に、これが悪いというのではなくて、概ねみんなそうなんです。私だってそうですよ。

ただ、やっぱり、そうしないと危うくなるというのはあるもので、いつか、そういうものと向かい合って、修正すべきは修正しなければ、にっちもさっちもいかなくなるんですね。理屈じゃなくてさ。



まあ、何が生きるのが上手で、何が生きるのが下手かなんて、実はよう分からんのですけども、人に言われたのならともかくとして、自分でそう思うなら、いつか余裕が出来たときに、「うまくない」部分と向き合って、「うまいように」変わった方がいいという、当たり前といえば当たり前のことを書きたかっただけです。

その余裕を得るために、休むのはありだし、時には何かを投げ出すのだって、必ずしも悪いとは言えませんわな。

要は、そういうのをひっくるめて、自分の人生を受容していくのが大事なんでしょう。





かぶと三十郎―きみのために生きるの巻
かぶと三十郎―きみのために生きるの巻





自分を受け容れられたら、人生は上々になるんじゃないですかね。

(心をくじく人がいなければ…)





【蛇足】

因みに、「生きるのが上手」なのと「ズルい」のとは違います。あと、生きるのが「うまい」「下手」と判断するのは、自分自身だと思います。

(人から言われるなんて、嫌ですよね)
(もっとも、それだけの関係があれば、別ですが)



【追記】

因みに、私はといえば、すごく下手な部分があって、それもいいなと思ったり、そこはなおしたいなと思ったり、それを不器用は不器用なりに、何とかしようと思うだけです。

そして、人の目から見て「うまい」といわれるものに対しては、案外、無頓着なことが多いです。



【また追記】

人生は意外とシンプルだ。
ただ、そのシンプルさを受け容れられるほど、人間は強くない。
だから、時間をかけて変容する。

変わる人は。




【関連記事】
「イライラする理由/どうしてイライラするのか?」
「人間は変われる/それなりに探し」




[サイト内タグ]:  頑張り  イライラ



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「今」がうまくいかないから悩むこともあると思います。
急に、問題を突きつけられて、「今」が急変する場合もあるでしょう。

「昔」のことを引きずって悩むこともあると思います。
急に「昔」のことを思い出して、何ともいえない気持ちになることだって、あるでしょう。



「昔」のことは変えられないし、「今」を急に良くすることは難しいわけですが、
「これから」というものは少し違うようです。

できるだけ良い姿の「これから」を想像し、
それに向かって努力したり、工夫したり、
そうやって、できるだけ良い「これから」を創造することは可能だと思います。

現実問題として、いっぺんにうまくいくわけでもないし、
急に目的が達成するわけでもないですが、
ちょっと頑張ったり、時に休んだり、
立ち向かったり、時に逃げ出したり投げ出したり、
そうしながらでも、少しずつ進んでいくようです。

そうやって、「これから」というものが紡がれて(つむがれて)いくように思います。

(何にせよ、少しずつ置いていくから積み重なるのであって、置くのを拒否すれば積まれるものはありません。また、置くのが速ければ、それはそれで危なっかしかったりするし)
(成功者の才能は、そういう部分だったりもしますしね)



逆に、「昔」や「今」にこだわりすぎて、
あるいは、完璧な「これから」にこだわりすぎて、

「これから」に向かう、小さい努力を放棄してしまうと、
「これから」はチカラを失うかもしれません。

(「こんなことしたって、しょうがない」そう言って、積み木をつむのを止めるのです…。まあ、ちょっとくらい止めたって、問題ないといえば問題ないんですけどね。根本的に積むのを止めない限り)



「今」や「昔」を良いものに変えるのは難しそうですが、
「これから」というものは、そうでもないようです。

歩んだ分だけ進みそうです。
たとえ数歩でも、ちゃんと進んでいるわけで、
その集まりが「人生」をカタチづくるように思います。

(それを実感できた時、それは大きな「チカラ」になりそうです)



何はともあれ、
「昔」は「そうだったこと」。
変えようにも変えようがない。
また、変える必要もない。

「今」は「今あること」、「今そうなこと」。
それは感じること、受け止めることで、変えるというのはちょっと違う気がする。

「これから」は「これから起こること」、「これから生じること」。
今、選択することで生じる未来。
自分の生き方次第で変化する。

まあ、必ずよくなるように変化させるのは難しいかもしれませんが、
それなりによくすることは可能なんでしょう。

人間、今の選択を避けるから、未来への切符まで放棄してしまう。
今の選択を引き受けないから、いつも嘆いてしまう。
(↑やあ、今までの私www)

未来はいいものだなんて、そんな無責任なことは言えないし、言う気もないんですが、まあ、いつか、己の幾分かでも引き受けられたとき、少なくとも、今とは違う未来が待っていると思います。

(そうやって、塗りなおして、塗りなおして、キャンパスは完成していくんだし…)




【追記】

その半面、「これから」や「未来」を憂慮する場合もあります。

起こっていないことを心配し、
起こっていないことを憂いてしまいます。

まあ、そういう事も幾分かは必要ですが、
そればかりでは苦しいですよね。

今はまだ来ない「これから」を心配するよりは、
「今」の自分を受け容れる方がいいかもしれません。

何があっても、自分は自分、
存在していいんだし、生きていいんです。

そこに人間の尊厳があります。


そんなことを受け容れながら、
素敵な「これから」に思いを馳せるのもいいでしょう。


【追記2】

どんな本も、一日数ページでも読んでいると、
いつかは、読み終えます。

数ページ読んでも仕方ないと、
その積み重ねを放棄すると、



まあ、それも選択さ…




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欠点なんて無いに越したことはないわけですが、
人間である以上、幾つかの欠点は持ち合わせているものです。



欠点をどう扱うかはいろいろありますが、大まかには、

・それをどう克服するか?
・それをどう受け容れていくか?

…でしょうかね。

実際には、この両方をやっていくわけですが、克服するにせよ、受け容れるにせよ、欠点とうまく付き合っていくことが大事になるのかもしれません。
(なにせ、それは自分のことであって、切っても切れない間柄なわけですから…)

で、どう付き合っていくのか? となるわけですが、
外的にも、内的にも、その欠点を理解し、受け止めていくことが、第一になるのかもしれません。

克服するにせよ、受け容れていくにしろ、それを見ないことにはどうしようもありませんからね。



欠点で何がつらいかというと、自分の欠点から逃げ続けていると余計につらくなるようです。

まあ、一時的に逃げるのはOKだし、欠点と向かい合わなくても平穏に暮らしていけるならそれでいいわけですが、気になっているのにそれを無視し続けると、うまくないかもしれません。

欠点にしろ何にしろ、それを放置する限り、
それは、ず~と、そのままで、
ず~と、気になることになりますから。

気になるのに放置するので、気になるままです。



しかし、欠点というとマイナスのイメージばかり浮かぶかもしれませんが、それだけでもないでしょう。
それは放置する限り欠点のままなのですが、それを修正すれば、その分よくなるわけで、自分が成長しよくなっていくだけの可能性があることだともいえます。

それだけ<伸びしろ>があるということです。
よくできる部分があるということです。

(あと、本人は気づかないことが多いですが、欠点が魅力になっている場合もあります)



欠点から逃げていると自分の不足も分からないし、分からなければ直しようもないわけで、そのままですが、
逆に、欠点を自分で受け止めることができれば、段々とその正体が見えてくるわけで、正体が分かれば修正のしようもあるというものです。

こうなると、モヤモヤしていたものにも意味が出てきそうですね。

まあ、モヤモヤしているならまだいいかもしれませんが、それが怖さに変わる前に、少しずつでも向かい合っていく方がいいのかもしれません。

もちろん欠点の克服は簡単に行なわれるものではないですが、それを承知の上で何とかしようとしてこそ、段々と自分自身が納得できるようになるのでしょう。
克服するにしても、受け容れていくにしても、ですね。



まあ、中には根本的に無理なことも出てくるでしょうけども、
そういう時こそ、いかに納得して、それを受け容れていくかというのが、大事になるんでしょう。

こういうのはインスタントにはいきませんが、逆に、時間をかけるべき大事なシゴトなのかもしれません。我々はこういうことを先延ばしにしてしまいがちですが、案外、優先順位は高いのかもしれませんね。

それに、できないことが、必ずしも悪いということではないですしね。

だいたいにおいて、表面ができれば裏面はできず、
裏面ができれば表面はできない、
そういう風になっています。



そして、外的な周囲の見方というものも影響を与えそうです。
欠点があったとしても、それを周囲が理解し、受け止めてくれれば、負担は少なくなるわけだし、ああ、欠点がある私でもいいんだ…そう思えるかもしれません。

その上で、克服するなり、受け容れるなりの作業に取り組めるのかもしれません。その支えになり得るのでしょう。



欠点なんて無いに越したことはないですが、まあ人間である以上、当たり前に持つものでもあります。なにせ、できることの裏面を我々はできないわけですからね。
だから要は、欠点をどう受け止め、どう理解していくか、どう付き合っていくか…そういうことが大事になってくるんでしょう。

そして、欠点を克服するにしろ、受け容れるにしろ、それをする前に、その欠点ってやつと、じっくり向かい合うことが大切になるようですね。
あるいは、欠点があることが問題なのではなくて、その欠点と向かい合えないことの方が、よほど問題なのかもしれません。

ということは、そこが変わってくれば ―― それを克服するにせよ、受け容れるにせよ ―― 欠点を通過点として、先に進めるということなんでしょう。

そうしてこそ、生きやすくなるんでしょうね。




まあ、嫌なことの裏にも、希望はあるようです。




[サイト内タグ]:  欠点



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生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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