ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
自分(私)を知るのは自分(私)なわけですが、
その一方で、人(他者)の目に映る自分(私)というものもあります。



私というものを認識するのはもちろん私自身なわけですが、
それだけでは足りない部分もあるのではないかと思うわけです。

・私が知る私、
・人の目に映る私、

―― その両方の姿を認識してこそ、
本来の自分の姿を認識できるのかもしれません。



人間の内面を考えた場合、
私の知る私(=自我)がある一方で、私の知らない私(=無意識や自己)もあります。
その私の知らない私は、知らず知らずのうちに態度や言動に表れ、自分よりは他人の方が知っている場合も多いようです。

一方で、人の目に映る私というものを考えた場合、
当然自分のすべてをさらけ出しているわけではありませんから、人の知っている私というものもあれば、人の知らない(ある意味、隠された)私もあります。

このように、
私の知っている私もあれば、私の知らない私もあって、
人の知っている私もあれば、人の知らない私もあります。

――って、なんか、ややこしいですね(笑



真の私というものを考えた場合、
やはり、「私の知る私」と「人の目に映る私」、この両方を知ることが必要かもしれません。

特に、社会という集団の中に生きる我々には、それを必要とする面が、ある程度、強いように思います。

私が私自身をある程度知っていないと、私というものを見失ってしまうし、
人の目に映る私というものもある程度知っていないと、人との関係を見失ってしまうかもしれません。

あるいは、自分には見えない自分の半身を見失ってしまうかもしれません。

だいたいが、背中がそうであるように、
我々は自分の裏側を見ることができませんからね。

自分の行いや行動を客観的に見ることは、カラダの構造上、難しいです。



「私の知る私」と「人の目に映る私」は当然異なる部分を含むわけですが、
これを同一化し、

・「私の知る私」を人も知っていなければならない
 (あるいは、知っていて当然)、とか、
・「私の知る私」と「人の目に映る私」は同じでなければならない、とか、
・「人の目に映る私」に「私の知る私」をあわせなければならない、とか、

―― そうなってくると無理が出てくるかもしれません。

実際、難しいですよ、
「私の知る私」は私しか知らない部分が多いわけだし、当然、人が知らない部分があるしょう。
(まあ、ある程度関係が深い人には、知っている部分は増えるかもしれませんが…)

一方、「人の目に映る私」は私というものの「表れ」であることは間違いないものの、そのすべてが「私の知る私」と一致するものではありません。私というものの内、表面に表れたものが映ったに過ぎません。
そして、「人の目に映った私」のすべてが、私に伝わるわけでもないし、時には間違って伝わる場合もあるでしょう。
(見るほうの勘違いだって、多々ありますし)


そういう行き違いがたくさんあるのだと思います。


「私の知る私」のすべてが人に伝わるわけではないし、「人の目に映る私」だって私の一部に過ぎません。

まあ、それでいいのではないでしょうか。

お互い、伝えたいことがあれば伝えればいいわけだし、
また、伝えるべきでないと思えば、隠すのもいいでしょう。
(更に、間違った私が伝わっていたとしたら、それを修正することも可能だと思います)

そんなバランスを考えるのも一興かもしれません。



「私の知る私」のみに支配された場合、周囲の不理解に悩んだり、周囲との摩擦に悩むかもしれません。(どうして分かってくれないの?)
「人の目に映る私」のみに支配された場合、本当の自分を見失ったり、生きた心地がしないかもしれません。(私って何? 私は何をしたいの?)

でも、どちらか片方ではなく、両方を含めた私というもの総体を大切にできた時、新たなものが見えてくるかもしれませんね。
(全体性を少しでも回復していけるのかもしれません)

両方大事に――なんて無理かもしれませんが、
両方をほどほどに――となると、可能かもしれません。

また、今まで蔑ろにしてきたから、
せめて今はそれを大事に――そういう期間があってもいいでしょう。


「私の知る私」にこだわり過ぎる時、
「人の目に映る私」にこだわり過ぎる時、

そんな時、もうひとつの私というものにも目を向けると、新たな発見があるかもしれませんね。

あるいは、

「私の知る私」を見失っている時、
「人の目に映る私」を見失っている時、

そんな時は、それらとしっかり向き合うことも必要かもしれません。

それは勇気の要ることですが、
余裕が出てきた時には、
それらに橋渡しをつけるのも、大事な作業かもしれませんね。

けっこう大事なシゴトかもしれません。




人の目に映る私:
それは私の知らない私を含む。
ただし、それが私のすべてではない。
ただ、時に、私の見落としているものを教えてくれる。

(まあ、勘違いされることもあるのだけども…)





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人間が肉体を持って生まれてくる以上、肉体を持つことには(大きな)意味があると、私は思うわけですが、
そのひとつが、「イメージを具現化すること」だと思います。



人間は無意識内に、普遍的なもの、個人的なもの、あわせて多くのイメージを持ちます。
「影」「アニマ(男性の中の女性的イメージ)」「アニムス(女性の中の男性的イメージ)」「母なるもの」「父なるもの」
…それらは普遍的な意味も持ちますし、個人の経験に彩られた個人的な意味も持ちます。

それらの究極のイメージが、「自己実現」とか「個性化」の目指すイメージでしょうか。

もっとも、「自己実現」や「個性化」は、「影」や「ペルソナ」、「アニマ」「アニムス」との対話・対決によって成されると思いますから、ひとつのイメージに限定することはできないかもしれませんが、
あえてそれらのすべてを包含するようなイメージがあるとするなら、
人は、自分自身の究極のかたちである、そのイメージに向かって生きていることになります。



そのイメージを「究極の人間」のイメージとするならば、
人間は各成長段階で、そのイメージに近づけるように、自分の足りないものを補うことになります。

例えば、自分の価値観がある程度できてきたら、「自分が認めたくないもの=影」と対話・対決し、影の中からも良い面を見出し、それを取り入れ、自分に足りなかったものを補っていきます。

また、男性的自我を持つ者は、無意識内の女性的イメージである「アニマ」と、
女性的自我を持つ者は、無意識内の男性的イメージである「アニムス」と、
対話・対決することで、自身に足りない面を取り入れ、「全体性」に近づいていきます。



このように、人生の各段階で、いろんなイメージとの対話・対決を通して、人間的に成長するわけですが、
実は、これら複数のイメージが存在するというよりは、
「究極の人間」という元型が、今無いものを補うために、その今は無い「対立する要素」の姿を借りて、具現化しているのかもしれません。
それが、ある時は「影」であり、ある時は「アニマ」「アニムス」なのではないでしょうか。

そういうものが、ずっとずっと奥の方に、あるような気がします。
(といっても、気がするだけです。確かめようもないし…)



そして、我々が肉体を持ってこの世に生まれてくる以上、
我々は、無意識の中に生まれ持っている「究極の人間」というイメージを、
この肉体を持って、この世界で具現化することが究極の使命なのかもしれません。

そして、人間が一人ひとり異なる以上、
たとえ「究極の人間」のイメージが、無意識の深遠では同じ「元型」だとしても、
それを捉える自我は一人ひとり違うわけだし、
更には、生まれた環境、文化、時代が違うので、
当然、この世に現れる、一人ひとりの「究極の人間」像も、違ってくるのではないでしょうか?



我々の究極の目標は、
この肉体、この自我、この自己、それらすべてを総動員して、
この世の中で、今この時代に、
自分だけの「究極の人間」像を具現化することなのかもしれません。



[サイト内タグ]:  肉体    アニマ  アニムス  全体性



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自分自身を鑑みても、

人間てポンコツだな~と思ったり、
人間てよくできてるな~と思ったり、

面白いな~、けったいだな~、
意味深いな~、しょうもないな~、

強いな~、弱いな~、
不思議だな~、合理的にできてるな~、

―― etc、etc、

「人間そのもの」のことなんて、よく分からないし、
すべてを理解できるわけがない、

そういう事を前提に、

(私自身という)人間の経験を通して、
人間というものを、少しずつでも、理解しているような気がする、

今日この頃…



(ほんの少しでも、ですね…)



[サイト内タグ]:  人間



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ある時は、何かとの関係を切らないと、飛び立てない、
ある時は、何かを嫌いにならないと、離れられない、



無意識は、時に、「切れ」、「嫌え」と言う、
(無意識だけに、それをコントロールすることはできない)



ある時は、関係を切らないと、進めない、
ある時は、嫌いにならないと、進めない、



そこには善悪では語れない、世の理(ことわり)がある、



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人間は、左右の目の像のズレで、物事を立体的に見ることができます。



左の目で見える像と、右の目で見える像の、ズレで、立体視することができます。
これで、目で見る像が、「奥行き」を持ったものとなります。



ここにも、二面性の神秘があるようです。

一方から見た風景、
もう一方から見た風景、
両方知っていれば、それだけ奥行きを感じることができます。

それだけ、深みも出るというものです。

(過去の関連記事)
「二つの目(二つの見方)…」



人間の先祖の哺乳類は、
もともと顔の比較的側面に目がありましたが、目が顔の正面にくることで、
立体的に像を捉える事ができるようになったそうです。



少し見方をかえて、
今より、奥行きを感じる見方ができないでしょうか?



二つの目+感覚(見て、触れる)
二つの目+直観(見て、インスピレーションを得る)
二つの目+思考(見て、考える)
二つの目+感情(見て、好き嫌い、快・不快などの判断を下す)

それによって、より奥行きが出るような気もします。

(人を見る場合、表情によっても、奥行きが出るかもしれません)



「二つの目」より、更に奥行きを感じることができる第三の目は、果たして何でしょうか?

それを得られるでしょうか?
(それとも、既にある? …絆創膏で隠しているだけ? 写楽くん)



【蛇足】

ズレやギャップが、「奥行き」を作るかも…

う~む…



[サイト内タグ]:  感情  思考



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南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


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