ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
加藤諦三 著「自分に気づく心理学」(PHP)より。



「話が通じない人の心理」について書いてきましたが、ここからは同じ著者の「自分に気づく心理学」という本をテキストに、進めていきます。



第1章 ひとづきあいが苦しいのはなぜか?

(P10)なぜ人はささいな事実にも傷つくのか


事実とは一般に「実際に起こった事柄」のことをいうので、基本的には、誰にでも同じです。雨が降った、サッカーの日本代表が試合で勝った、道で犬に吠えられた、などなど。

このようなものは「起こった事柄」という意味では同じですが、「人によって全くその重みが違う」と、加藤諦三さんは指摘します。

確かに、「雨が降った」という事実は同じでも、人によって重みは違うかもしれない。ある人は「ああ、降ってるな~」と思う。別のある人は、遠足が中止になるなどして、ひどく悲しむかもしれない。また別の人は、水源のことを考え、喜ぶかもしれません。

サッカーの試合だって、応援している人にとっては一大事です。一喜一憂し、その日の精神状態だって、左右するかもしれない。でも、関心のない人にとっては、そうでもありませんね。また、応援している人にだって、温度差はあるかもしれません。

犬に吠えられることだって、驚く人もいれば、かわいい犬だと話しかける人だっているかもしれない。あるいは、個人的な経験により、ひどく恐れ、取り乱す人がいたっておかしくありません。

このように、人それぞれなんですね。「人によって全くその重みが違う」。加藤さんは、「この一点をお互いに理解することで人間関係の私的なトラブルはどのくらい避けられるか分からない」と言います。



それは、ある人にとっては、どうでもいいことかもしれない。でも、別のある人にとっては、すごく大切なことかもしれません。そして、大切なことを どうでもいいみたいに言われると、何か複雑な心持になってしまう。

あるいは、一方が「何でもない」と思っているような言葉で、もう一方がひどく傷つけられることもあります。言った方は忘れている。でも、言われた方はいつまでも覚えている。こんなことも、ありそうですね。

「あの人は○○だ」と、誰かが言ったとします。確かに、それは誰から見ても、事実かもしれない。でも、そう言われた相手は――それが本人であるかは別にして――ひどく傷つく場合もある。本では、例として、親戚の悪口や、友達の悪口について触れています。

言う方は悪口とも思っておらず、ただ事実を口にしただけかもしれない。ただ、それを言われて傷つく人が出たというのも、ここでは事実になります。Aさんが、「あの人は○○だ」と口にした。それを聞いたBさんは、「傷ついた」と言った。するとAさんは、「単なる事実だ」と返した。でも、Bさんにすれば、傷ついたのも事実なのです。



ある程度 自分を評価できて、ほどほどの自尊心を持つ人は、あまり傷つかないという。逆に、自分をあまり評価できず、なかなか自信を持てない人は、ささいなことで傷ついてしまう。他の人は気にしなくても、ひどく気にして、おかげでピリピリしてしまいます。





自分に気づく心理学






指で肌に触れる。

ある人はこれをされても、気にしないかもしれない。

でも、ひどく気にする場合も、あるでしょう。


(1) 慣れていない。

慣れてないことをされると、人は驚きます。

想定されてないことでも、驚くかもしれない。


(2) そこが傷になっていた。

傷に触れられると、痛むかもしれない。

痛まないにしても、治るまでは触ってほしくないと思う。

肌の傷は見えるけれど、心の傷はどうだろう?


(3) 相手による。

親しい相手ならいいけど、知らない人だと困る。

そんなケースも、あるかもしれません。



気軽にタッチするかのように、何かを言った。

でも、例えば上記のような理由で、相手は困った顔をするかもしれない。

そんな時に、どうするか?


ある人は、「こんな些細なことで」と立腹するかもしれません。

でも、事情を知れば、どうだろう?

傷に触れといて怒る人は、そんなに多くないでしょう。


ただ、誰もが事情を知るわけでもないのも、事実。

世界中の民よ、すべての事情を知れ! というのも乱暴な話です。

なので、これも、場合場合ですね。

事情を知らないのだからとスルーする場合もあれば、いつも関わるのだから事情を話そうと思うような場合もある。

関係ある人と、関係のない人。

この辺でも、違うのかなあ…。





「傷つきやすい人」の心理学 ~人間関係にとらわれなくなる本~






ある程度 自分を評価できて、ほどほどの自尊心を持つ人は、あまり傷つかない。

ここに、ヒントがありそうです。


そして、下の方で書いた傷の話と、自尊心についても、関係ありそう。

元になる、それでいて意識しにくい、そんな傷。





「第2回 なぜ、他人を怖れるのか?」>>




[サイト内タグ]:  自分に気づく心理学



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

加藤諦三 著「自分に気づく心理学」(PHP)より。



第1章 ひとづきあいが苦しいのはなぜか?

(P14)幼い頃 やさしさに接しなかった人は 人の好意が分からない



人間にはいくつかのタイプがあるという。


・他人の拒否を怖れて、善意的に振る舞う。
・他人の拒否を怖れて、強さを印象付けようとする。
・他人の拒否を怖れて、弱さを印象付けようとする。



目に見える形はそれぞれ違うのですが、動機は同じですね。

「他人の拒否を怖れて」

それを考えると、一見、自分でそうしているように見えて、実は「そうさせられている」ことが分かります。

単に善意的でありたいとか、強さを見せたいとか、弱さを見せたいとか、そうではなくて、その前に、他人の拒否を怖れる心があるのです。

いわば、こいつに支配されている。


周囲の人は怖れてないのに、敏感になってしまう。

怖れる必要などないのに、なぜか構えてしまう。

その結果として、パターンとなっている態度や行動が出てきます。


ではなぜ、人に拒否されることを、怖れてしまうのでしょうか?


1つには、「責められ癖」があるといいます。

小さい頃、ことあるごとに責められてきたので、人間というものは責めるものだとか、相手には責められるものだとか、そういう思考回路が無意識にできてしまっていると。

目の前の状況を観察するのではなく、まるで反射のように、そう思ってしまうのです。

なので、人に接するだけで、「ああ、責められるんだ」というのを前提にしてしまう。

「何もないから責められない」ではなくて、「何もしないと責められる」となっているのです。

こうなると、他人に拒否されることを、いちいち怖がらずにはおれません。


もう1つに、「人の善意や好意に慣れてない」というのがあるという。

幼い頃に、やさしさに接してないので、人の善意や好意というものがどんなものか知らないし、そんなものは予想もできないと。

人がやさしくしてくれるなんて、その人にとっては想定外なのです。


知っているものは認識できますが、知らないものは うまく認識できません。

成長する過程でやさしさに接しても、それが何であるか、うまく呑み込めないのです。


ある程度 健康的に育った人は、やさしさに接すると、ありがとうと返す。

でも、やさしさを知らない人は、たとえそれに接しても、「?」となると。

場合によっては、他のことと勘違いする場合も。



他人からの拒否を怖れるのは、1つは自分を守るため。もう1つは、自分が存在する許しを乞うためだという。

こんなに善意的なんだから、こんなに強いんだから、こんなに弱いんだから → だから、存在を許してほしい。

いても、いいでしょ? 拒否しないで! 責めないで!

そんな気持ちが奥にあるというのです。


つまりは、特に理由もなくただそこにいること、存在することを認められた経験が欠けているので、どうしてもそうなってしまうと。

なので、とても本人の所為だとは言えない、ということになります。





自分に気づく心理学






どうして、他人を怖れるんだろう?

 ↓

そんなに怖れる必要は、ないんじゃないか?




<<「第1回 ささいなことで傷つくわけ」「第3回 勝手に我慢して不機嫌になる」>>




[サイト内タグ]:  自分に気づく心理学



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

加藤諦三 著「自分に気づく心理学」(PHP)より。



第1章 ひとづきあいが苦しいのはなぜか?

(P17)周囲の期待ばかり気にしていると 本当の自分が抑圧される



我慢が美徳とされがちな、日本。

特に前の時代では、我慢せねばならなかったことも多かったようです。


そんな中で、日本人には我慢癖のようなものができているのかも。

何かにつけブレーキがかかり、我慢してしまいます。

(といっても、どこかで我慢する代わりに、案外別のどこかで、自由にしているところがあったりするのですが)


自分がやりたいことをやらないでおいて、不満になる人がいるという。

誰かが禁止したわけではない。でも、頑なにやらない。

いわば、自分で禁止するルールを作っているのです。

なのに、我慢させられていると思ってしまう。


そこには、ギャップがあるといいます。

・本人が周囲から期待されていると思っている像。
・周囲が本人に期待している像。



例えば、本人は勤勉さを期待されていると思う。でも、周囲は、もう少し自由にすることを期待してたりする。

といっても、この辺は混ざり合うことが多く、例えば、ある程度の勤勉さを維持しながら、もう少し自由でいてもらいたい、というところでしょうか。


好きで勤勉にするのは別にいいのですが、「期待されているから勤勉にしている」となると、話が変わってきます。

そこにはいくらかの、我慢がある。しかも、そのいくらかも、積もり積もれば、けっこうなものとなってしまいます。さらにその期待は、誤解を元にしたものです。

結果、どうなるかというと、誤解を元に我慢を重ね、ひどく不満が溜まるということに。

さらには、不満だということを無視しようとすると、感情は抑圧され、見えないことろでどんどん蓄積されることになりそうです。それで、余計にイライラする。


何も、我慢が悪いわけではありません。社会で生きるのだから、多少の我慢は必要です。

問題は、その我慢や努力が、的外れになってしまっている点にある。

だって、その期待は、誤解から来ているのだから。



前回は、「他人の拒否を怖れる」という心の癖について触れました。

今回の事例にも、これが関係するという。

例えば、何か特別な期待を自ら生み出し、それを成し遂げることで、他人から拒否されないようにしているというわけ。逆にいえば、それをクリアしなければ他人から拒否されると、怖れていることになります。

・○○しなければ、嫌われる。
・○○しないと、人に好かれない。
・○○できないと、ダメな奴だと思われる。


こういうのを、勝手に決めつけてしまっているのだと。


確かにそういうこともありますが、それが勘違いしていたり、的外れだったり、極端だったりしているのだという。実際はズレているのに、強く信じ込んでしまっている。

あるいは、過去の場面だとか、ある限定された場だとか、そういうところで成功した事例が力を持ちすぎて、違うケースにまで適用されてしまっている。

マッチしてないのに、マッチしてると、誤解してしまっているのです。こういうズレは誰にでも生じるものですが、「確認しないこと」で溝を大きくしてしまっているんですね。


小さい頃と、大人になってから。
学生の頃と、社会に出てから。
家庭と、職場や学校。

ケース・バイ・ケースであるはずなのに、なぜか、「どこでも同じ」になってしまっている。

「場合場合」が忘れられてしまっています。



というわけで、このズレさえ修正できれば、無用な我慢を小さくすることができそうです。

しないでいい我慢で、不満になることもなくなる。





自分に気づく心理学




「我慢」と「成功」の法則 ~後悔しない人生のための63のルール~






前提を間違えると、ズレが広がるという。

昔と今、あの場所とこの場所では、前提が違っていることもしばしば。





<<「第2回 なぜ、他人を怖れるのか?」「第4回 憎しみを拒否する人は、他の誰かを憎む」>>





【我慢の関連記事】

「我慢が必ずしも必要ない理由」
「怒る時は怒るし、泣く時は泣く/夏目漱石」




[サイト内タグ]:  自分に気づく心理学



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

加藤諦三 著「自分に気づく心理学」(PHP)より。



第1章 ひとづきあいが苦しいのはなぜか?

(P20)あなたの周囲の愛すべき人、憎むべき人



我々はリンゴを見たら、それをリンゴだと認識します。それは、我々がリンゴという物を知っているから。単に言葉で知っているだけではなく、形や味など、経験的にもいろいろと知っています。

なので、「あっ、リンゴだ」というような時、単に言葉だけでなく、イメージのようなものも受け取っている。


ところで、リンゴの形をした、別の物があったとしたら、どうだろう? それは外見上はリンゴだけれど、味は全然リンゴとは違う、まったくの別物。

ある人は、それをリンゴだと思って生きてきた。その人にとってリンゴは、みんなが知っているリンゴではなく、まったく別物のリンゴ。そんな場合、どうなるでしょう?

おそらく、他のみんなとその人では、リンゴに対する認識において、ギャップが生じるでしょう。みんなが思うリンゴと、その人が思うリンゴでは、全然違う。

この「リンゴ」を、「家族」に置き換えたら、どうだろう? あるいは、「ふれあい」に置き換えたら、どうだろう? そこに、何が生じるでしょうか?



さて、人間にとって欠かせないものに何があるでしょうか? 食べ物、着る物、住む所、愛情、気の許せる相手、いろいろとあると思いますが、そのひとつに「理解」もありそうですね。

・理解されると、うれしい。
・理解されないと、悲しい。

・理解は人を育てる。
・不理解は人を挫(くじ)く。



先週は、「我慢」について触れました。その前には、「他人に拒否されることを怖れる」ということに触れた。そして、これらも、「理解」に関係するという。

加藤諦三さんが言うように、子どもは本来、ワガママです。小さければ小さいほど、そうでしょう。なのに、早い段階で(自分の)ワガママを禁じる人がいるという。子どもらしいワガママも、自らタブーとし、禁じます。

では、なぜ、そうなってしまうのでしょう?

それは、ワガママをすることで拒否されることを怖れるから。小さい子にとって、受け容れられるか拒否されるかは、死活問題なのです。なので出来るだけ、拒否されないようにします。そういう心理が働く。

小さい子は基本的にワガママである。これを理解する人は、子どもを極端に拒否することもないでしょう。後々、我慢を覚えてもらうにしても、そんなには急がない。そんな状況が、子どもに安心を与えます。

この信頼感を基本にし、子どもはだんだんと成長する。

度の過ぎたワガママを叱られることはあっても、それなりのワガママを許されることでホッとし、安心します。そういうことを無意識に試すことも、きっとあるんでしょうね。自分が存在することを赦されているか確かめ、安心し、それを土台として生きていきます。


ただ、悲しいかな、子どもに大人がするようなことを要求する人がいる。それはまるで、小さな子に大きな荷物を負わせるのと同じようなことです。客観的に見れば どだい無理なことなのですが、そうしてしまう。

そんな時、子どもはどうなるか?

満足にそれをこなせない自分を責めます。自分は無力だと思い込んでしまう。ふつうなら「子どもだから」と思うところですが、そうは思えません。結果、持たないでいい罪悪感で、自分を傷つけてしまいます。


多くの場合、子どもはそれさえも意識しません。ただ、成長と共に、何らかの症状が出てきたりする。例えば、訳もなく憂鬱になる、ささいなことでカッとする、不安な気持ちが去らないなど。

そこには「考えと気持ちの行き違い」があるようです。

加藤諦三さんの言葉を借りれば、「あなたを理解することなく、あなたをもてあそんだ人を憎んではいない。逆にあなたを理解し、あなたに温かさを与えてくれるような人を憎んでいたりする」(P21)ということに。

憎んでもいい人を憎めない。憎もうとすると、罪悪感にやられてしまう。それでいて、思いやりのある人や、何でもない人に、あたってしまいます。本来向けるべき方向に感情を向けられないので、他の方に行ってしまうのです。


憎めないのは、心がないからでしょうか? 実は、そうではありません。心があるから、憎めないのです。そこにあるのは、「憎みたくない」という心。「信じたい」という心。「きっと分かってくれる」という期待。

でも、それらが裏切られ続けるので、心の方がどうにかなってしまいます。


ここで言いたいのは、「さあ、憎みましょう」ということではありません。相手の全人格を否定しなさいということでもない。だいたい、それができないから苦しんでいるともいえるのだから。

我々は、多くの混同をやらかします。全部を同一に扱うことで、苦しむ。ここでいえば、「ひどいこともあった」「でも、やさしくもされた」、「ゆるせない」「でも、いいところもある」など。

なので、分ければいいのです。整理すればいい。

全人格を否定することはない。人間の全部を憎むこともない。ただし、ひどいことには怒ればいい。ゆるせないことには抗議すればいい。全部を悪なるものとすることはないけれど、そのうちの悪なる行為は憎んでもいいのです。

つまり、人は憎まないでいいので、ひどい行為には怒っていいと。



怒るべきことに怒らない人は、別のところでイライラしたり、別のことに怒っているものです。

憎むべき人を憎まない人は、別の人を憎んでしまったりする。

そして、感情を抑圧すれば、心身がやられたり、どこかで不器用な爆発をしてしまったりする。


望まれるのは、健全化。

正しい方向性を持たせ、感情を処理することのようですね。

そしてそれには、自分と身近な人の、考えや態度や行動が、深く関わっている。

感情は、それに対する自然な反応なのです。





自分に気づく心理学




子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方






憎しみを否定している?

それとも、憎しみに囚われている?





<<「第3回 勝手に我慢して不機嫌になる」「第5回 甘えるのが苦手だと深い関係になれない」>>




[サイト内タグ]:  自分に気づく心理学



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ

加藤諦三 著「自分に気づく心理学」(PHP)より。



第1章 ひとづきあいが苦しいのはなぜか?

(P23)生真面目な人は 本当に愛されない



何かと否定的に扱われがちな「甘え」ですが、甘えは「安心感」と大いに関係するという。

保護者という言葉がありますが、小さい子ほどその通りで、保護する人がいないと生きていくことが難しいですよね。そんな保護者の機嫌を気にせずに過ごせる人は幸せだという。なぜなら、やがて情緒的に成熟することができるから。

では、逆はどうだろう? 保護者の機嫌を終始 気にしながら育った子はどうなるだろうか? そんな子は、甘えの欲求を満たせなくなるという。そしてそのツケを、成長してから支払うことになります。


人間は安心感がなければ甘えることができないと、加藤諦三さんは言います。見捨てられる不安、拒否される不安などがあると、もう甘えられなくなる。それは強いブレーキになります。

時に問題としてあげられる「いい子」。その根底にも、この布置があるという。甘えるのが苦手で、その奥に、安心感の欠如があると。


真面目なことは、何も悪いことではありません。ただ、いい子として育ってきた人は、甘えを表現するのが苦手。また、何かにつけ遠慮がちです。

性格としては、依存の傾向があるという。何かに頼りたいと思う。人の好意を必要としているのだけれど、甘えをタブーとしているので、このジレンマに苦しみます。

本当は、安心したい。でも、甘えられないので、なかなか安心感が得られない。それも多少なら我慢できるのですが、ずっとそうして生きてきているので、やがてたまらなくなります。


深い付き合いには甘えがあると、加藤諦三さんは言う。表面的な付き合いでは、規範や控え目さが大事になります。ほどよく遠慮しながら、適度に距離を保つ。でも、距離を縮めようとする時、それは段々と破られます。

本音を言うようになったり、互いに頼みごとをするようになったりと、程度というものはありながら、段々と節度を超えるようになってくる。

生真面目な人は、距離を置いている時、よく信用されるという。でも、逆に、距離を近づけようとする時、途端に信用されなくなる。どこか他人行儀なので、なかなか深い関係になれません。

これは言葉を変えると、<うまく甘えられない>ということを意味するのでしょう。真面目は得意、でも、甘えるのは苦手。


甘えを禁じてきた人は、内面的には、甘えることに飢えている。それでいながら、頭の方では、甘えを否定している。飢餓状態でありながら、満たすことを徹底的に拒否してしまいます。またそれで、飢えが加速する。


身近な人付き合いのうまい人を頭に浮かべたら、どうでしょう? その人は、甘えるのがうまくないだろうか? それは同時に、甘えの欲求が満たされている人なのかもしれない。なので、躊躇がないし、甘え慣れている。



腹が減れば、イライラします。これと同じで、満たされないとイライラする。甘えに飢えている人も、どこかでイライラするものです。表面的には穏やかでも、どこかで欲求不満のようなものが見え隠れする。

また、安心感という意味でも満たされてないので、どこかで不安になる。それが大人になってから出てくる場合も、あるようです。





自分に気づく心理学




かわいがり子育て―3歳までは思いっきり甘えさせなさい






お腹が減ったら、どうするか? 渇いていたら、どうするか?

(昔のスポーツのやり方と、今のスポーツのやり方というのも、ありそうですね。水分補給とか)
 

ピンチの裏にはチャンスがあるという。

危機には、いい機会という意味が含まれるという。


足りない時は、足す。

知らないことは、覚える。

慣れてないなら、だんだんと練習する。


ピンチの裏にはチャンスがあるという。

危機には、いい機会という意味が含まれるという。





<<「第4回 憎しみを拒否する人は、他の誰かを憎む」「第6回 欲求不満になるわけ」>>




[サイト内タグ]:  自分に気づく心理学



ブログランキング・にほんブログ村へ
BlogPeople「人間・哲学/人間考察」
blogram投票ボタン


ランキングに参加しています
よかったらクリックしてね


秋だから、実をためる


↑ページトップへ


■ 最近のエントリ

■ 人気ページランキング





// HOME // NEXT
Powered By FC2ブログ.
copyright © 2005 枕石漱流 日記(ユング心理学の視点から) all rights reserved.
ブログパーツ アクセスランキング
■ Amazon
■ 注目記事
■ アーカイブ
■ カテゴリ

■ 月別アーカイブ

■ 検索ぷらす


【注意】 ENTERキーだとうまく表示されないようです。申し訳ございませんが、ボタンを押してください。

■ キーワードハイライト機能

検索時、検索語句がハイライトされます。

■ BlogPeople リンクリスト

リンク集と更新状況↓



☆登録する by BlogPeople☆

■ RSSリーダーに登録

 RSSリーダーで購読する

 メールで購読する


(リンク切れを修正しました)


■ 最近のトラックバック
■ スポンサードリンク

■  
■ スポンサードリンク



■ 最近の記事
■ カレンダー

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

■ FC2カウンター



現在の閲覧者数:

■ プロフィール

南方 城太郎

Author:南方 城太郎
生息地:関西
分類:昭和人間
生まれ:
黒電話、赤電話が主流で、冷房は扇風機、暖房は石油ストーブと炬燵という時代


日記について


拍手する

プロフ
電脳露店マイアソシエイトストア
おバカ映画

■ リンク
■ RSSフィード
■ インフォメーション


検索サイトiscle
(検索サイトさんです)

■ QRコード

QRコード

携帯でも御覧になれます。

■ 地域情報



ジオターゲティング





■ にほんブログ村

■