☆『児童期』☆
児童期には、「自発性 vs 罪悪感」という要素が対立します。
「自発性」とは、「自分から物事を進んでしようとすること」です。
あるいは、「他からの影響や強制などではなく、自分の内的要求によって行われること」ともいえるでしょうか。
ここで大事なのは、「他からの影響や教え、強制」でなく、「自分から進んで」あるいは「内的要求によって」することです。
自我というものを考えるなら、「自我が自分の行動の中心になること」、「自我を中心として自分が行動できること」ともいえるかもしれません。
そして、これに失敗すると、対立する要素、「罪悪感」を生んでしまいます。
児童期には、「あれをしたい」「これをしたい」と子供のほうから言うようになると思いますが、ここで自発性をいつも否定してしまうと、罪悪感を育てることになりかねません。
(自分の要求を示したり、自ら進んで行なうことが駄目なことだと思い、罪悪感を抱いてしまうかもしれません)
実際問題として、いつも子供の意欲的行動に従うわけにはいかないでしょうが、できる限りの範囲で尊重することが、自発性を育てていくことになると思います。
逆に、いちいち手を貸したり、意欲的行動を否定し続けるなら、自発性が萎んで(しぼんで)しまったり、罪悪感を育ててしまう可能性もあるでしょう。
そして、子供の自発的行動が成功した時は、十分に褒めてあげた方がよさそうです。その達成感が支えになり、より自発性を育てるだろうし、次の意欲を生む面があるように思います。
また、たとえその行動が失敗したとしても、自発性を否定することなく、「残念だったね」とか「次は頑張りましょうね」と言ってあげるのが大事なようです。
(「ほ~ら、失敗した」なんてのは止した方がよさそうですね)
ここでも、「見守る」ということが大切になりそうです。
(突き放すでも、抱え込むでもなく、見守ることが大事になりそうです)
まあ、現実的には、自発性のみを育て続けるのは無理なわけですが、結果として「自発性 > 罪悪感」になればいいわけだし、人生を生きる上では多少の罪悪感も、自発性を抑えることも、必要となるでしょう。
(罪悪感がなければ、悪い自分の態度を修正できません。ただ、罪悪感があまりに勝ちすぎると、自分から進んで行動することを制限してしまうということです)
(それに、自発性があまりに勝ちすぎて、「したい放題」みたいになるのも、困りもんですしね)
要は、「自発性 > 罪悪感」を目指すこと、その為にできる限り自発性を尊重すること、それが大切なのだと思います。
☆『学童期』☆
学童期には、「勤勉性 vs 劣等感」という要素が対立します。
勤勉とは、一般には「一生懸命に精を出して励むこと」、「仕事や勉強などに、一生懸命に取り組むこと」となるでしょうか。
あるいは、学童期というものを考えた場合、勉強に励んだり、クラブなどの何かしらの活動に励んだり、人の話に耳を傾けたり、宿題や課題をやり遂げたり、遅刻や忘れ物をしないようにしたり…ということも関わってくるでしょう。
ただ、ここで注意しなければならないことは、「勤勉性」とは「一生懸命に取り組んだり、励むこと(あるいは、さま)」であって、その成果ではないことです。
学業でいうなら、成績そのものではなく、如何に勤勉に取り組むか、です。
ここで、勤勉性が評価されることなく、成績のみで否定的な評価をされたなら、勤勉性の価値は沈み、「劣等感」を膨らませることになるかもしれません。
(「あ~、アホらし」「やってられん」となるかもしれません)
ただ、人生というものを考えるなら、良い成績をとることも勿論(もちろん)大事なわけで、そういう意味で、成績での評価もある程度は必要になるでしょう。
大事なのは、成績がすべてではないことです。
成績が評価のすべてであったなら、それに失敗した時、すべてを否定することになりかねません。成績はひとつの判断材料に過ぎないし、それで人格や存在まで否定されるものではないです。
(とはいえ、ひとつの判断材料や成果としての成績をまったく否定することはありません。単純に考えても、良い成績は嬉しいものです)
更に、同じ学童期といっても、低学年の段階と高学年の段階とでは、ある程度分けて考えた方がよさそうです。
一般的に、低学年である方が成績より勤勉性が評価されてよさそうだし、ある程度高学年になると、それなりに成績というものにも価値を見出した方がよさそうです。(もちろん、一般論的・公式的に語れるものではありませんが)
ここでも大事なのは、「勤勉性 > 劣等感」となること、勤勉性を上回るような劣等感を育てないことです。
その為にも、「何かしらに一生懸命に取り組むこと、励むこと」を尊重した方がよさそうです。
(この場合、そのときの時代背景や価値観により、取り組む対象によって、評価されたりされなかったりしがちですが、そういうものを越えて、「一生懸命に励むこと」自体も評価した方がいいかもしれません。まあ、(学業など)本業はあるものの、それがある程度できているなら、趣味の世界に「一生懸命に励むこと」も評価した方が、勤勉性を育てる事につながるかもしれませんね)
また、自我というものを考えるなら、「内的要求と外的要求のバランス」ということが大事になる時期かもしれません。
自分の「内的要求」に従い、一生懸命に取り組んだものが、「外的要求」(親や先生の価値観)により判断されたなら、それが否定された場合は劣等感、評価された場合は優越感を生むかもしれません。
(将来的には、もっと複雑になるかもしれませんが…)
人生を歩む上で、内的要求も外的要求も大事なのですが、
・劣等感に悩んでいる人は外的要求が強すぎて、内的要求が蔑ろ(ないがしろ)にされている面があるかもしれません。
・逆に、過剰な自信を持ちすぎる人は、内的要求の方が勝ちすぎて、外的要求を蔑ろにしている面があるかもしれません。
(あるいは、どちらにしろ、内的要求と外的要求が、同じ方向に――というのは、劣等感を育てたり、自信を育てたりする方向に――タッグを組んで、ぐいぐい押している場合もあるかもしれませんね)
(
「思春期・青年期、成人期」へ続く…)
【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」【注意】
当たり前といえば当たり前ですが、
ものには程度というものがあって、
いかに、よいとされるものでも、
あまりに勝ちすぎると、困るようですね。
「自発性と罪悪感」の関係にしても、
自発性が勝ちすぎて、
それこそ、周囲を蹴散らすくらいに邁進されたら、
たまらない部分がありますもんね。
(まあ、それが必要なケースもありますが…)
また、
「勤勉性と劣等感」の関係だって、同じです。
それに、罪悪感や劣等感というのも、
無さ過ぎると、
それはそれで、困った事態を引き起こしたりしますもんね。
というわけで、
人生には、
反転や紆余曲折、なんかが必要になるんですね。
(劣等感や罪悪感を知ることもまた、必要なわけです)
その時は嫌ですが…