ユング心理学の視点から見た日記。スーパー戦隊シリーズ キョウリュウジャー、トッキュウジャー、東のエデンのレビューと感想。エニアグラム、子どもが育つ魔法の言葉、話が通じない人の心理、自分に気づく心理学。ドラマやアニメから学ぶ人生観。
 
自我は私の中にあり、また、自我は人の目に映る私を認識します。

「私というもの」を認識するのも自我、
「人の目に映る私」を認識するのも自我です。

自我は、相手と自分を明確に区別し、
また、相手の目に自分がどう映っているかも認識します。

が、その自我が弱っていたらどうでしょうか?

あるいは、自我が確立されていなかったらどうでしょうか?



自我が弱いと、相手と自分を区別できないかもしれません。

そして(相手と自分を同一視してしまい)、
・私の気持ちをみんなも知っていなければならない。
・私の意見とみんなの意見は同じでなければならない。
・でも、誰も私の気持ちを分かってくれない。
…そう思ってしまうかもしれません。

あるいは、少し進んで(相手と自分が同じでないことを気に病み)、
・私の気持ちを知られたくない。
・私の意見を否定されるのが怖い。
・だから、何も見せたくない。
…そんな風に思ってしまうかもしれません。

そして、更に(自我というものが)疲弊してしまうと(疑心暗鬼が生じ)、
・私の気持ちをみんなは知っているのではないか?
・私の意見はすべて否定されてしまうのではないか?
…そんな風にまで思ってしまうかもしれません。



また、「人の目に映る私」というものを考えた場合、
自我が弱ってしまうと、「人の目に映る私」が気になって、気になって、身動きが取れなくなるかもしれません。

更に、人の目に映ること自体を拒否したり、人の目に映る自分をすべて否定的に捉えてしまうかもしれません。



このようなことは、少なからず誰にでもあると思うのですが、
あまりに、上記のような傾向が強い場合、
自我が弱っている面があるのかもしれません。
あるいは、自我が確立されていない面があるのかもしれません。


では、自我を確立させていくには、どうすればいいのでしょうか?

それを「人間の成長段階」というものを考えながら、見ていきたいと思います。



エリクソンは、人間の成長を8段階に分けて考えました。

1:乳児期
2:幼児期
3:児童期
4:学童期
5:思春期・青年期
6:成人期
7:壮年期
8:老年期

以上の8段階です。

それぞれの段階について、もう少し詳しく見ていきたいと思います。




「乳児期・幼児期」へ続く…)


【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」





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☆『乳児期』☆

最近の記事でも書いてきたように、この時期には、
無償で愛されること、自分の存在を認めてもらうこと、喜びを持って迎えられること、などが求められます。

それによって、自身も、世界を愛し、周囲の人や世の中を信じ、自分の存在を認めることができます。
このような周囲の無償の「基本的信頼」に支えられ、自分に対する「基本的信頼」も育てていきます。
また、それが、人間が生きるうえでの安心の基盤になるでしょうか。

逆に、それらが得られないと、「不信」へとつながるかもしれません。
(更に、この「不信」は、将来的な「無気力」や「諦め」につながるかもしれません)

自我というものを考えた場合、この「基本的信頼」に支えられ、自我は育つことになるでしょう。
また、基本的信頼という支えが弱いなら、自我もまた弱くなるかもしれません。
土台が弱い分、安定に欠けるかもしれません。


極端な言い方をすると、十二分に愛された子供は、将来、必要以上に愛されることを望まないですみます。
(既に、十分愛されていますから)
一方、十分に愛されていない子供は、成長後も愛を渇望してしまう傾向があるようです。
(まだ、十分に愛されていませんから)

少し言葉を変えるなら、
乳児期に「依存」を十分に経験した人は、それ以上の「依存」を必要としないわけで、
逆に、「依存」を十分に経験していない人は、成長後も、「依存」を渇望する傾向があるのかもしれません。
(そうしてまでも、乳児期に経験できなかった「依存」を埋めたい部分があるのでしょう)

ここで、子供を構い過ぎることで「過保護」にならないだろうか? と心配する方がおられるかもしれませんが、乳児期では心配ないと思います。
それよりは、むしろ、上記のように、十分に構ってもらった子供のほうが、将来、それ以上構われることを望まなくなるようです。

繰り返しますが、乳児期に受けた周囲からの無条件の「基本的信頼」が、自身への「基本的信頼」を育てるのです。
満たされた経験が、安心を紡ぎ(つむぎ)出します。


☆『幼児期』☆

この時期から、躾(しつけ)など周囲からの要求に出会うことになります。
そして、「周囲からの要求」と「自分の内なる要求」とのバランスをとることを覚えていきます。

これがうまくいくと、人は「自律性」を持ってある程度、自立する事ができるようになりますし、
これがうまくいかない場合、「恥」や「疑惑」というものに囚われて、自分をコントロールする事が下手になるかもしれません。

自律性を持つこと、自分をコントロールしていく為には、ある程度、自分の内なる欲求を我慢することを覚えなければなりません。それを支えるのが、我慢することで生じる未来(良い結果)を信じることであり、また、それを支えるのが、乳児期の「基本的信頼」です。

(基本的信頼に支えられた子供は、周囲や、より良い未来を信じ、その為に我慢したり、自分をコントロールできる部分があるのかもしれません)

そして、ここで大事なのが、周囲や未来を信じ、自分をコントロールすると共に、それによって得られた良い結果・達成感などを十分に体験することです。それが意欲や自信を育てることにつながるかと思います。

はじめに、「周囲からの要求」と「自分の内なる要求」とのバランスを覚えていくと述べましたが、
この時期が、人間としてはじめて二面性のバランスを学ぶ時期であり、選択や決断を学ぶ時期なのかもしれません。
これによって、人は、両者のバランスの中にあって、自分をコントロールしていくこと(自律)を学んでいきます。

この自律性ですが、それを育てるには、「見守ること」、「待つこと」が大切になってきます。
もちろん最初から何かを出来るなんてことはないですから、繰り返し教えることは大事ですが、その教えたことをいつ出来るようになるか、それを待ち、見守ることが大切になります。

ここで大人が急ぎすぎて、出来ないことを安易に非難しすぎると、「恥」や「疑惑」を育ててしまうことになるかもしれません。
また、その「恥」や「疑惑」が自分の行動を制限する呪縛に育つ可能性もあります。
(場合によっては、自己否定につながるかもしれません)

・子供をコントロールし過ぎないで、ある程度、子供の自律性に任せる、
・安易に出来ないことを非難したり、否定しすぎない、
…それが大事かもしれません。
(もちろん、放っておくなんてのは論外ですが)



このように、それぞれの成長段階には、乳児期では「基本的信頼 vs 不信」、幼児期には「自律性 vs 恥・疑惑」という風に、対立する二つの要素があります。

もちろん、乳児期では「基本的信頼」が、幼児期では「自律性」が、それぞれ育つに越したことはないのですが、実際問題として、100%ということはありえません。
乳児期にできるだけ子供に無償の愛を注ごうとしても、始終構い続けるわけにはいきませんから、どうしても「不信」も育ってしまいます。
幼児期にしても、できるだけ子供の「自律性」を尊重しようとしても、多少の「恥」や「疑惑」は生まれるものです。

ただ、「基本的信頼 vs 不信」、「自律性 vs 恥・疑惑」というものを考えた場合、
結果として、「基本的信頼 > 不信」、「自律性 > 恥・疑惑」となっていればいい話です。

それによって、安心・安定が得られます。

(それに、多少の「不信」や「恥・疑惑」の気持ちがあったほうが人間らしいし、人生を生きる上で役立つように思います。「不信」がないと、悪い人まで信じてしまいますし、「恥」や「疑惑」がないと、自分の態度を正せない部分があります)

また、たとえ乳児期の基本的信頼が欠けていて、今が不安定だったとしても、
これから、少しずつでも基本的信頼を獲得できるような経験をし、逆に不信を取り除くような経験ができれば、
今、「基本的信頼 < 不信」で不安定なのが、「基本的信頼 > 不信」と変容し、安定できるかもしれません。

こういった作業を、一般論ではなく、各個人の人生に当てはめて、徐々に経験し、変容することが大切なのだと思います。



こういうことを踏まえて、後々、児童期からの成長段階についても書いていきたいと思います。




「児童期・学童期」へ続く…)



【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」




【注意】

どうしても、書きようが一面的になるし、
公式的になってしまいますが、

このような公式に当てはめないとダメだというわけでは、もちろん、ないし、
それができたから、必ず幸せな人生が送れる、というわけでもありません。

これはあくまで羅針盤のようなもので、
自身が、自身の人生に、納得するための、
材料のひとつです。

それを使う人もいれば、使わない人もいるでしょう。

使ったとして、それである程度の筋道が見えてくる人もいれば、
余計に迷う人もいるかもしれません。

何より、「自分に適用する」というのは、
なかなか難儀な仕事です。

また、だからこそ、人に対して安易に使っていいものでもないと思います。


と、長くなりましたが、
こいつに魔法の力を求めても、それは無理なようです。

まあ、
ヒントくらいかなぁ…

(結果として、魔法のような力が発揮される場合もあるかもしれませんが、その過程は、きっと、つらいぞ~~)

知識は知識に留まる限り、カタチを持たず、
それに命を吹き込むには、
カタチを持たせる、
体現したり、表現したりする、必要があるんでしょう。

つまり、我が身を通す、ってこですね…

そして、それが一番つらいともいえる。







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☆『児童期』☆

児童期には、「自発性 vs 罪悪感」という要素が対立します。

「自発性」とは、「自分から物事を進んでしようとすること」です。
あるいは、「他からの影響や強制などではなく、自分の内的要求によって行われること」ともいえるでしょうか。

ここで大事なのは、「他からの影響や教え、強制」でなく、「自分から進んで」あるいは「内的要求によって」することです。

自我というものを考えるなら、「自我が自分の行動の中心になること」、「自我を中心として自分が行動できること」ともいえるかもしれません。

そして、これに失敗すると、対立する要素、「罪悪感」を生んでしまいます。


児童期には、「あれをしたい」「これをしたい」と子供のほうから言うようになると思いますが、ここで自発性をいつも否定してしまうと、罪悪感を育てることになりかねません。
(自分の要求を示したり、自ら進んで行なうことが駄目なことだと思い、罪悪感を抱いてしまうかもしれません)

実際問題として、いつも子供の意欲的行動に従うわけにはいかないでしょうが、できる限りの範囲で尊重することが、自発性を育てていくことになると思います。
逆に、いちいち手を貸したり、意欲的行動を否定し続けるなら、自発性が萎んで(しぼんで)しまったり、罪悪感を育ててしまう可能性もあるでしょう。

そして、子供の自発的行動が成功した時は、十分に褒めてあげた方がよさそうです。その達成感が支えになり、より自発性を育てるだろうし、次の意欲を生む面があるように思います。
また、たとえその行動が失敗したとしても、自発性を否定することなく、「残念だったね」とか「次は頑張りましょうね」と言ってあげるのが大事なようです。
(「ほ~ら、失敗した」なんてのは止した方がよさそうですね)

ここでも、「見守る」ということが大切になりそうです。
(突き放すでも、抱え込むでもなく、見守ることが大事になりそうです)

まあ、現実的には、自発性のみを育て続けるのは無理なわけですが、結果として「自発性 > 罪悪感」になればいいわけだし、人生を生きる上では多少の罪悪感も、自発性を抑えることも、必要となるでしょう。
(罪悪感がなければ、悪い自分の態度を修正できません。ただ、罪悪感があまりに勝ちすぎると、自分から進んで行動することを制限してしまうということです)
(それに、自発性があまりに勝ちすぎて、「したい放題」みたいになるのも、困りもんですしね)

要は、「自発性 > 罪悪感」を目指すこと、その為にできる限り自発性を尊重すること、それが大切なのだと思います。


☆『学童期』☆

学童期には、「勤勉性 vs 劣等感」という要素が対立します。

勤勉とは、一般には「一生懸命に精を出して励むこと」、「仕事や勉強などに、一生懸命に取り組むこと」となるでしょうか。
あるいは、学童期というものを考えた場合、勉強に励んだり、クラブなどの何かしらの活動に励んだり、人の話に耳を傾けたり、宿題や課題をやり遂げたり、遅刻や忘れ物をしないようにしたり…ということも関わってくるでしょう。

ただ、ここで注意しなければならないことは、「勤勉性」とは「一生懸命に取り組んだり、励むこと(あるいは、さま)」であって、その成果ではないことです。
学業でいうなら、成績そのものではなく、如何に勤勉に取り組むか、です。
ここで、勤勉性が評価されることなく、成績のみで否定的な評価をされたなら、勤勉性の価値は沈み、「劣等感」を膨らませることになるかもしれません。
(「あ~、アホらし」「やってられん」となるかもしれません)

ただ、人生というものを考えるなら、良い成績をとることも勿論(もちろん)大事なわけで、そういう意味で、成績での評価もある程度は必要になるでしょう。
大事なのは、成績がすべてではないことです。
成績が評価のすべてであったなら、それに失敗した時、すべてを否定することになりかねません。成績はひとつの判断材料に過ぎないし、それで人格や存在まで否定されるものではないです。
(とはいえ、ひとつの判断材料や成果としての成績をまったく否定することはありません。単純に考えても、良い成績は嬉しいものです)

更に、同じ学童期といっても、低学年の段階と高学年の段階とでは、ある程度分けて考えた方がよさそうです。
一般的に、低学年である方が成績より勤勉性が評価されてよさそうだし、ある程度高学年になると、それなりに成績というものにも価値を見出した方がよさそうです。(もちろん、一般論的・公式的に語れるものではありませんが)

ここでも大事なのは、「勤勉性 > 劣等感」となること、勤勉性を上回るような劣等感を育てないことです。
その為にも、「何かしらに一生懸命に取り組むこと、励むこと」を尊重した方がよさそうです。

(この場合、そのときの時代背景や価値観により、取り組む対象によって、評価されたりされなかったりしがちですが、そういうものを越えて、「一生懸命に励むこと」自体も評価した方がいいかもしれません。まあ、(学業など)本業はあるものの、それがある程度できているなら、趣味の世界に「一生懸命に励むこと」も評価した方が、勤勉性を育てる事につながるかもしれませんね)

また、自我というものを考えるなら、「内的要求と外的要求のバランス」ということが大事になる時期かもしれません。
自分の「内的要求」に従い、一生懸命に取り組んだものが、「外的要求」(親や先生の価値観)により判断されたなら、それが否定された場合は劣等感、評価された場合は優越感を生むかもしれません。
(将来的には、もっと複雑になるかもしれませんが…)

人生を歩む上で、内的要求も外的要求も大事なのですが、
・劣等感に悩んでいる人は外的要求が強すぎて、内的要求が蔑ろ(ないがしろ)にされている面があるかもしれません。
・逆に、過剰な自信を持ちすぎる人は、内的要求の方が勝ちすぎて、外的要求を蔑ろにしている面があるかもしれません。
(あるいは、どちらにしろ、内的要求と外的要求が、同じ方向に――というのは、劣等感を育てたり、自信を育てたりする方向に――タッグを組んで、ぐいぐい押している場合もあるかもしれませんね)




「思春期・青年期、成人期」へ続く…)



【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」



【注意】

当たり前といえば当たり前ですが、
ものには程度というものがあって、

いかに、よいとされるものでも、
あまりに勝ちすぎると、困るようですね。

「自発性と罪悪感」の関係にしても、
自発性が勝ちすぎて、
それこそ、周囲を蹴散らすくらいに邁進されたら、
たまらない部分がありますもんね。
(まあ、それが必要なケースもありますが…)

また、
「勤勉性と劣等感」の関係だって、同じです。

それに、罪悪感や劣等感というのも、
無さ過ぎると、
それはそれで、困った事態を引き起こしたりしますもんね。


というわけで、
人生には、
反転や紆余曲折、なんかが必要になるんですね。
(劣等感や罪悪感を知ることもまた、必要なわけです)

その時は嫌ですが…







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☆『思春期・青年期』☆

思春期・青年期には、「アイデンティティー vs アイデンティティー拡散」という要素が対立します。

「アイデンティティー」という言葉を説明するのはなかなか難しい部分がありますが、これは「自我同一性」とか「自己同一性」と呼ばれるもので、
・「自分とは何者か?」
・「自分は自分をどのように定義するか?」
とか
・「自分は一体何の為に生まれてきたのか?」
・「自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」
…そんな問いに、自分なりの答えを出すこと、とも言えるでしょう。

あるいは、状態というものを考えるなら、
・「自分が自分であると、しっかり受け入れられる状態(確信できる状態)」
・「自分が自分であると言うのに、迷いや動揺が無い状態」
・「自分が自分らしくありながら、社会や集団の中で自分なりの居場所を確保できる状態」
…といえるでしょうか。

更には、
・「私というものを確信し、私というものに、一貫性、同一性を与えるもの」とも言えるかもしれません。


上記のような問いに対する答え、状態を(ある程度)得られた場合、安定できたり、社会に対して適応できることになります。
しかし、逆に、答えを出せなかったり、そもそもそういう問題を先送りにしてきた場合、「アイデンティティー拡散(自我同一性拡散)・混乱」という状態に陥ってしまうかもしれません。

自我がある程度しっかり確立されている場合、人は時や場面を越えて自分が一個の個人として存在することを確信し、自我は統一された状態にあるのですが、自我が確立されていない場合、本来統一されるべき自我が「拡散」したり「混乱」する場合もあります。

(前者が、自我を中心に私というものがある程度まとまりを持っている状態とするなら、後者は、私というものがまとまりを持たず、霧のようにもやもやと拡散した状態といえるでしょうか。まあ、あくまでイメージですが)


上記のようなアイデンティティーの定義を見ても分かるように、現代日本の思春期・青年期の者で、自分に対する問いに明確に答えられる人は少ないのではないかと思います。
(いろんな意味で、そんな暇ないんでしょう。ああ、時間泥棒…灰色の男たち…)
それよりは、成人期や中年期になって、アイデンティティーを確立せねばならない状態を迫られ、結果、いろんなものと対決しながら、アイデンティティーを確立していく、という場合の方が多いのではないでしょうか。
(中には、アイデンティティーを確立せぬまま、一生を終える人もいるかもしれませんが…)

こういうことの一因には、日本の「場を大切にする風土」があるのかもしれません。
場を大事にするが故に、アイデンティティーというものをしっかり確立しなくても、場の中である程度(その一員たる)自分というものを受け入れられたり、場の中にいることで迷いや動揺もなくいれたり、アイデンティティーというものが無くても、集団の中に自分なりの居場所を確保できた面があると思います。
(あるいは、逆に、確立する方が、生きにくい面もあるのかもしれません)

ただ、生活様式が変容するにつれ、アイデンティティーの確立というものが持つ意味も、以前よりは大きくなってきているように思います。

アイデンティティーが確立されていないために、アイデンティティー拡散・混乱のような状態に陥り、自分に自信や確信が持てなかったり、得体の知れない不安に襲われることもあるでしょう。
(その時期は別にして、誰にだって、こういうことはあるのではないでしょうか)

ということは、逆に、自分に自信や確信を持つために、不安を解消するために、アイデンティティーの確立という仕事に取り組んでいくことも、また大事なように思います。
また、この作業は、「自分自身の内部」でも「他者との交流の中」でも、行なわれるべき仕事だといえます。
(自分というものを無条件に認めることは、自分の内部でも行なわれなければならないし、それを他者との交流の中で経験的に感じることも大事になるでしょう)

ただ、両方が大事であるということは、両方を同時にやるべきだということではありません。
別に、内的に確立してから、他者との関わりの中で確立してもいいわけだし、
社会や集団の中で自分の居場所を確立してから、内的に確立していってもいいでしょう。
また、両方を場合場合で入れ替えながらやってもいいように思います。

大事なことは、最終的に、内的にも外的にもアイデンティティーの確立が成されることが望ましいということです。
(内的に、私というものを確立し、外的に、私というものを感じる…ともいえるでしょうか)


☆『成人期』☆

成人期には、「親密性 vs 孤独」という要素が対立します。

青年期にアイデンティティーを確立するとすると、成人期にはより現実的・具体的な課題に取り組むことになります。
青年期では「自分とは何者か?」という問いや「集団の中の自分の居場所の確保」が問題となっていたのが、成人期では、職業やパートナーの選択、結婚するか独身で通すかの選択、生活様式の選択をしたり、それらの役割などを、就職、結婚、社会生活の中などで、如何に果たすかが課題となってきます。
言葉をかえると、青年期に確立したものを、社会との関わりの中で如何に「カタチ」にするか、というのが問題になります。

この時、人との関わり合いの中で「親密性」を育てること、親密な人間関係や、世界との関わりを築くことが大事で、
逆に、これに失敗すると、「孤独」を膨らませることになります。

この関係は、同性・異性に関わらず、広い意味での特定の他者に対するもので、友情、愛、性的なもの、いろいろな関係・親密さがあるように思います。
また、これらの関係は、互いのアイデンティティーの融合に裏づけされていることが望ましいようです。

ここでも両者の対立の中で、「親密性 > 孤独」となることが望ましく、今、「親密性 < 孤独」で不安であったとしても、自分というものを確立し、それを他者との中で表現するうちに、互いのアイデンティティーを尊重しながら、「親密性」を育てることができれば、「親密性 > 孤独」と変容することができ、親密性が孤独を癒すことになると思います。




「壮年期・老年期」へ続く…)



【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」



【追記】

ここでももちろん、孤独であることや、アイデンティティーを持たないことが、悪いわけではありません。
ましてや、それを笑ったり、非難するなんてのは、クソバカ野郎(っと、失礼)のすることです。

そういうのは誰でも、ある程度、持つだろうし、
ある程度、経験することでしょう。

そして、それを持ちもしないし、経験もしない人というのは、
共感もできないし、
役に立てるわけもないのです。


問題は、
「それをどうやって経るか」ってことです。

留まるから苦しい、
留まるから悲しい、

だから、前の段階に戻ってでも、
悩み、考え、行動し、
経るんですな。


もっとも、余力のある時に、ですが…
(だから休養が大事なのさ…)






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☆『壮年期』☆

壮年期には、「世代性 vs 停滞性」という要素が対立します。

「世代性」とは、次の世代を育む(はぐくむ)という作業に積極的に関与する、関心を高める、というような意味ですが、
それは、自分の子供を育てることも、職場や学校などで次の世代を育てることも、含まれるでしょう。
あるいは、自分自身が深めたものを次の世代に託す、といった意味もあるかもしれません。
(まあ、カタチなんて、いろいろあるんでしょう)

この「世代性」を持てないと(次世代を育成することに関心を持てないと)、個人的にも社会的にも、「停滞」してしまう傾向があるのかもしれません。
(先に進みませんから)

また、世代性を持つには、自分自身が確立されていなければならない面があるでしょうね。
ある程度、自分を確立していなかったり、深みを持っていないと、それを次の世代に託せないだろうし、それ以前に託そうと思わないかもしれません。(乱暴な言い方をすると、託すもの自体がない、かもしれません)

これは職業的なものもそうですし、社会的なもの、家庭的なもの、もっと個人的なものもそうでしょう。
それらを含めて、私というものを確立し、ある程度カタチにしてから、それを次の世代に託そうとするのだと思います。
(内的にも外的にも自分自身の価値を高め、その価値あるものを次世代にバトンタッチしていくのだと思います)
(意識しているかどうかは、別にして…)


この時期には、いわゆる「中年の危機」といわれるような問題が顕在化してくるようです。

①『いろんなものに限界を感じ始める』
体力の限界、能力や可能性に対する限界、若い頃描いていた理想像への限界、いろんな意味での時間的な限界…それらを感じ始める時期かもしれません。

また、その為に、自分の人生を問い直したり、アイデンティティーを再確立しようとしたりする傾向もあるようです。
その過程で悩み、鬱(うつ)などの症状を発症することもあるでしょう。
ただ、別の見方をすれば、そういう症状を通してでも、今までの人生を見直すことや、アイデンティティーを再確立することが望まれている、とも言えるでしょうか。

②『自分の内なる異性との折り合いをつける(アニマ・アニムスとの対決と統合)』
自分が生きられなかった半面は、無意識内の異性であるアニマ・アニムスと結びつきやすいのですが、この時期には、前へ前へと進んでいたものが、ある意味、下ることも余儀なくされ、自分が置き去りにしてきた面(生き方)に関心が行き始めます。

そういった意味で、アニマ・アニムスと対決し、統合していかなければならない面もあるように思います。
今まで生きられなかった半面と向き合うことが要求される面もあるでしょう。
(あるいは、それ以前に、「影」と向かい合うことになるかもしれませんね)


壮年期には、今まで未解決だった課題が再現されやすく、そういったものと向き合うことを余儀なくされる部分が大きいように思います。
(ある意味、それだけの余裕や資格が得られたとも取れるでしょうか?)

そんな中で、
・限界と(アイデンティティーの)再確立を経験する、
・内なる異性(アニマ・アニムス)との折り合いをつける、
・今まで関わってきたものと分離してでも感じられる、私というものを確認する、
(家庭や職業を切り離してでも、私というものを感じられるか否かの確認)
・次の世代を生み出すという、創造性への移行、
…そのようなことが要求されるのかもしれません。


☆『老年期』☆

老年期には、「自我の統合性 vs 絶望」という要素が対立します。

この時期には、今までの人生を振り返り、良いことも悪いことも含めて、私というものや私の歩んだ人生を受け入れていくことになります。
これから訪れるであろう死や、今までの自分を受け入れていくことと、次の世代に関心をもって生き続けることが、「自我の統合性がとれた状態」といえるでしょうか。

逆に、それができない場合、絶望の淵に陥ることになるかもしれません。
死は恐怖に満ち、今までの人生を後悔しながら、絶望的になってしまうかもしれません。
あるいは、自分の人生を生きること、自分の人生に意義を見出すこと、それらが出来ていないなら、どうしても絶望的にならざるを得ない部分があるかもしれません。

「老年期」を、老衰や衰退といったマイナス要素のみで受け入れていくか、それとも、そういった要素もあるものの、円熟や英知、智慧、成熟といったプラス要素も含めて受け入れていくか、それはそれまでに「乳児期」から「壮年期」までを如何に生きたか、ということにも関連してくるように思います。(それまでに、如何に自分を確立できたかが重要になってくるでしょう)

ただ、老年期に差し掛かったときに、十分な生き方を出来ていないから駄目かというと、そうではなくて、それまでの段階と同じように、もう一度生きれなかった部分を(ある意味、前の段階に戻ってでも)生きる事ができればいいのだと思います。

この段階に限らず、前の段階を十分に生きる事ができていなかったなら、それまでを振り返って、それを補うだけの生き方をしたり、再確立したり、そうしながら、良いも悪いも含めて受け入れられればいい話です。

そして、人生の最終段階で、「自我の統合性 > 絶望」となっていればいいのだと思います。

(誰の人生でもない、自分の人生です。過去や今を嘆いて過ごすか、過去に戻ってでも必要なものを補ったり、再確立して、新しい未来を創造するか、それは自分次第であると思います。そして、少しでもその助けになろうとするのが、心理学であったり、カウンセリングの技法であるのだと思います)



【まとめ】
「エリクソンのライフサイクル」



【追記】

それはそうと、

人間、「何をおいても、やらねばならないこと」ってものが、あって、
それがはたして何であるか、それは分かりづらいもんです。

ましてや、それは一般論で計れるもんではないし、
むしろ、一般論が、余計に分かりづらくしたりしますもんね。

で、その、一般論の埒外にあるものと向かい合うための、ひとつの目安として、
「エリクソンのライフサイクル」は使えるかもしれませんね。


もっとも、
ぎょっとしたり、ドキッとしたり、
なかなか向かい合えなかったり、

そういう厄介なものを、(真実というやつは)含むのだと思うのですが…






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